極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
 会社は都心の地下鉄駅のすぐ傍にあり、景光さんの家からエントランスまで、ものの三十分ほどで到着する。ちょうど昼休憩の時間と被ってしまったらしく、エントランスには昼食に出かける社員が溢れていた。
 社員じゃない私は、上の階まで行くことはできない。景光さんを呼んで取りに来てもらおうと思っていたけれど、この状況だとエレベーターも混んでいるだろうし、受付の人に事情を話して景光さんに渡してもらったほうがいいかもしれない。
 私は取り出そうとしていたスマホをポケットに戻し、受付に向かって歩き出す、――――その途中で、耳が聞き覚えのある声を拾った。
「……それで、どうなの?」
「どうなのって、何がだ」
 景光さんと、恵美子さんだ。
 ちょうど会食に向かうところなのだろう、二人はそれぞれきちんとした格好だった。お腹を締め付けないために緩い服を着ている私とはまるで違う、お似合いの姿に、駆け寄ろうとした足が一瞬止まる。
 そして次の瞬間に聞こえてきた言葉で、心臓も呼吸も、何もかもが止まった。
「プロポーズよ、プロポーズ! いつになったらしてくれるのかしら。私ずっと待ってるんだけど」
 周囲から音が消え、恵美子さんの声だけが嫌にはっきりと頭に響く。ざあっと波が引くように血の気が失せる感覚。耳の奥で嵐のような音が鳴っている。ちかちかと危険な明滅を繰り返す視界の中で、困ったように笑った景光さんが、恵美子さんのほうを振り返って。
「そろそろだな」
「楽しみにしてますよ、社長」
「……期待はするなよ」
 揶揄うような恵美子さんの声に応えたのは、景光さんの少し照れ混じりの声だった。前までは、彼の声音に隠された些細な機微など感じ取れなかったはずなのに、――――どうしてこういうときに限って、分かってしまうのだろう。
 次に我に返ったとき、私は景光さんの家の玄関に独りで座り込んでいた。
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