若き社長は婚約者の姉を溺愛する
君がいない ※瑞生視点
 ――なぜ、あの日連れ去らなかったのか。

「こんにちは。宮ノ入(みやのいり)さん。もう瑞生(たまき)さんでいいかしら?」

 美桜が引っ越すはずだった土曜の朝、宮ノ入のマンションに現れたのは、異母妹の沖重(おきしげ)梨沙(りさ)だった。
 ベージュと黒のラインが入ったセットアップのスーツ、短いスカート丈に高いヒール。奥様風をイメージしたのか、つばの大きな帽子をかぶっている。
 一瞬で、状況を理解した。

 ――美桜を奪われた。俺が甘かったせいで。

 祖父の言葉が脳裏をよぎる。 

『汚さも卑怯さも否定するな。すべて食らってこその宮ノ入』

 俺の甘さを祖父が指摘した時の言葉だ。
 美桜の立場や意思を尊重したいという気持ちと、連れ去りたいという気持ちが争った結果、慎重に行くことに決めた。
 無理やり連れ出さなかったのは、彼女と過ごす静かで穏やかな時間を失いたくなかったからだ。
 桜の花が舞い落ちる世界で、共に過ごした時間は、宮ノ入の世界ではなく、俺だけの時間だった。
 唯一無二の場所。
 両親を失ってから、ずっと宮ノ入に関わりある世界で生きてきた自分にとって、あの時間だけが――

「まさか、本当に美桜と結婚するつもりだったの? 宮ノ入グループの社長が?」

――なにより大事なものだった。
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