若き社長は婚約者の姉を溺愛する
 ◇◇◇◇◇ 

 沖重の家がある高級住宅地は、静かな朝を迎える。
 近くに大勢の人が来るような店もオフィスもなく、大きな邸宅がほとんどを占める。
 時折、車の音がするけど、それは警備をするパトカーだったり、住宅地に住む人の車くらいで、道を通る人は少ない。
 犬の散歩をしているマダムが、大きなつばの帽子をかぶり、歩いていくのが見えた。
 その人が通り過ぎたら、会社に行く用意をしなくてはいけない。
 朝食とお弁当を作り終え、軽く朝を済ませた私は鏡の前に立った。
 鏡を見た瞬間、私は暗い気持ちになった。
 叩かれた指の痕より、先に目がいったのは眼鏡。大事な眼鏡のレンズに、ヒビが入っていた。
 昨日、落ちた時の衝撃だと思うけれど、その透明なレンズに入った薄い線を指でなぞり、ざらりとした感触にため息をついた。

「修理するか、買い替えるしかないわね……」

 眼鏡のヒビに気づいても眼鏡を外す気になれなかった。
 継母のヒステリーは今に始まったことじゃないのに、なぜか、いつもより堪えた気がする。
 だから、一人でなくなるのは危険なのだ。
 弱い自分が、誰かを頼ろうとしてしまうから。
 うつむき歩いていた私の横を車が通り過ぎ、スピードを落としたのが分かった。
 思わず、顔を上げて確認すると、それは黒塗りの車。

 ――嫌な予感しかしない。

 駅へ向かう道に、う回路はなく、車のそばを通るしか、選択肢はなかった。
 罠とわかっていながら、避けられない罠。私が横を通り過ぎると、案の定、車の窓が開き、後部座席から社長が顔を出した。

「早いな」
「……おはようございます。社長こそ、早いですね」
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