若き社長は婚約者の姉を溺愛する
「そうか……」

 気まずい雰囲気になったところで、タイミングよく車が止まる。
 八木沢さんが約束してくれたとおり、会社の裏側で路地から表へ回れる。人通りもほとんどない。

「失礼します。送っていただきありがとうございました」

 お礼を言って、慌てて車から降りた。
 眼鏡を手で押さえ、私は早足で歩き出す。
 
 ――これがないと、私は私でいられなくなる。これは私を守るもの。
 
 社長はきっと私のことをめんどくさくて、秘密のある女だと思ったに違いない。
 でも、私は社長だって秘密がある。
 さっき、聞きたかったのに、聞けなかったことがあった。

『梨沙とお見合いするんですよね?』

 それを聞いてしまったら、もう会えなくなる気がして聞けなかった。
 足を止め、眼鏡を外し、微かなひび割れを見つめる。
 それはほんの少しだったけど、やがてヒビは大きくなり、使えなくなるだろう。
 
「……私の世界を壊さないで」

 苦しくて悲しいのに、あの人の言葉ひとつひとつに、私の心は揺れ動き、期待してはいけないのに、期待してしまう。
 孤独だった私は、『あと少しだけ』の言葉で自分を誤魔化して、失った時、小さな傷で済まないとわかっていながら、自分から離れられない。
 暗い路地から明るい向こう側を眺め、社長が乗った車が通り過ぎていくのを見送った。
< 53 / 205 >

この作品をシェア

pagetop