若き社長は婚約者の姉を溺愛する
 どんっとシートに体を押し付けられ、低い声が頭の上から降ってくる。
 怖くて涙がこぼれたけど、八木沢さんは冷たい目のままだ。
 思えば、この人が、本当に優しい目をしたところを見たことがない。
 震える指で、スマホに触れ、助けを求めた。

「た、助けてください……。わ、わたし……」
美桜(みお)? なぜ、直真(なおさだ)の番号から?』

 八木沢さんが笑う声が、耳のそばで聞こえた。

「瑞生と呼べと、言われていたよな?」

 命じる声は低い。

「た、瑞生さん! 瑞生さん、助けてください! 八木沢さんに連れ去られて……」

 そこまで言うと、八木沢さんは私の手から、スマホを奪った。

「美桜さんをからかいすぎました。すみません」
『そうか。後から詳しく聞く。事によっては、一発殴らせろ』
「顔は許してください。いろいろ便利に使えるので」

 自分の顔を『使える』と表現するあたり、まるで自分自身を道具としか思ってないような気がした。

「驚かせてすみませんでした」

 にこやかな口調なのに、黒さが滲み出ている。

 ――善人ではない、この人は。

「美桜さんが、今日は昼食をご一緒したいそうです。ホテルランチを予約しましたから、そちらでどうぞ」
「わ、わたし?」
「そうでしたよね? 美桜さん?」

 瞳の鋭さに体が震え、小さい声で頷いた。

「は、はい……」

 私の緊張した声に気づいたのか、返ってきた社長の声は低かった。

『直真。しばらく、その顔を使えなくなるな』
「ちょっと、ふざけただけなんですけどね」

 優しい態度に戻った八木沢さんは、私の涙をハンカチでぬぐう。
 いつものように八木沢さんは微笑んでいたけど、私は少しも笑えなかったのだった――
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