桔梗の花咲く庭
第9章
第1話
翌朝のその人は、恐ろしいほど普段通りだった。
本当に何も変わらない。
いつものように朝餉を食べ、奥の部屋で静かに過ごす。
私は忙しいふりをして、通い詰めるようになっていた奥へ行かないようにしている。
夜の来るのが怖かった。
寝る部屋を変えることも、布団の位置を変えることも出来ない。
どうしてこの部屋に衝立があったのだろう。
今はそのことに救われる。
あの人は夜遅くになってから寝所へくるようになった。
私の寝付いた頃にやって来て、起きる頃には姿を消す。
乱れた布団とそこに残る体温だけが、ここにいた証だった。
もう幾日も口をきいていない。
「いってらっしゃいませ」
勤めに出る晋太郎さんを、お義母さまと見送る。
その姿が見えなくなってから、ため息をついた。
晋太郎さんとの仲を応援してくれていたのに、今ではそんなお義母さまの隣にすら居づらい。
声をかけられる前に立ち上がった。
「あら、まだなにか家事が残ってるの?」
「縫い物が少し……」
「最近、根を詰めすぎではないですか? それも悪くはないけど、晋太郎とは仲良く出来ているの?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
他にどういう返事をしたらいいのだろう。
それ以外の答えなんて、許されるはずもないのに……。
部屋に戻り、いつまでも仕上げるつもりのない端布を手に取った。
緊張で夜の眠りが浅いのを、昼寝で何とか持ちこたえさせている。
うとうととしている間に、すっかり日は傾いた。
「ただいま戻りました」
その声に飛び起きて、裏戸へ向かう。
出迎えた義母の隣に並んだ。
「通りでたまたま見かけたので……。買って参りました」
久しぶりに目を合わせた。
その人の手が、こちらに伸びてくる。
結んだわら紐の先で、竹皮の包みが揺れていた。
それは私が受け取ろうとする前に、膝に置かれる。
「茶が入ったら、奥の部屋へ持ってきてください」
膝上のそれを、じっと見つめている。
久々に声を聞いたせいか、胸を打つ鼓動が早い。
誰にも悟られぬよう息を整える。
義母は隣でため息をついた。
「何を買ってきてくれたのかしらね」
そう言われて、ハッと我に返る。
開いてみると、鮮やかな橙の枇杷が現れた。
甘酸っぱい香りが辺りに広がる。
「まぁ、枇杷の蜂蜜漬け? 初物じゃないの。早く持ってお行きなさい」
作られてまだ日が浅いのか、しっかりとした実の回りに、ねっとりとした蜜をまとっている。
義母は箸でそれを皿に載せると、湯飲みに茶を注いだ。
盆を手渡される。
「じゃ、よろしくね」
用意された二つの湯飲みが重い。
今はその一つを運ぶことでさえ苦痛なのに……。
こんなものを買ってきて、あの人はどうしようというのだろう。
小皿に盛られた枇杷の実が恨めしい。
本当に何も変わらない。
いつものように朝餉を食べ、奥の部屋で静かに過ごす。
私は忙しいふりをして、通い詰めるようになっていた奥へ行かないようにしている。
夜の来るのが怖かった。
寝る部屋を変えることも、布団の位置を変えることも出来ない。
どうしてこの部屋に衝立があったのだろう。
今はそのことに救われる。
あの人は夜遅くになってから寝所へくるようになった。
私の寝付いた頃にやって来て、起きる頃には姿を消す。
乱れた布団とそこに残る体温だけが、ここにいた証だった。
もう幾日も口をきいていない。
「いってらっしゃいませ」
勤めに出る晋太郎さんを、お義母さまと見送る。
その姿が見えなくなってから、ため息をついた。
晋太郎さんとの仲を応援してくれていたのに、今ではそんなお義母さまの隣にすら居づらい。
声をかけられる前に立ち上がった。
「あら、まだなにか家事が残ってるの?」
「縫い物が少し……」
「最近、根を詰めすぎではないですか? それも悪くはないけど、晋太郎とは仲良く出来ているの?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
他にどういう返事をしたらいいのだろう。
それ以外の答えなんて、許されるはずもないのに……。
部屋に戻り、いつまでも仕上げるつもりのない端布を手に取った。
緊張で夜の眠りが浅いのを、昼寝で何とか持ちこたえさせている。
うとうととしている間に、すっかり日は傾いた。
「ただいま戻りました」
その声に飛び起きて、裏戸へ向かう。
出迎えた義母の隣に並んだ。
「通りでたまたま見かけたので……。買って参りました」
久しぶりに目を合わせた。
その人の手が、こちらに伸びてくる。
結んだわら紐の先で、竹皮の包みが揺れていた。
それは私が受け取ろうとする前に、膝に置かれる。
「茶が入ったら、奥の部屋へ持ってきてください」
膝上のそれを、じっと見つめている。
久々に声を聞いたせいか、胸を打つ鼓動が早い。
誰にも悟られぬよう息を整える。
義母は隣でため息をついた。
「何を買ってきてくれたのかしらね」
そう言われて、ハッと我に返る。
開いてみると、鮮やかな橙の枇杷が現れた。
甘酸っぱい香りが辺りに広がる。
「まぁ、枇杷の蜂蜜漬け? 初物じゃないの。早く持ってお行きなさい」
作られてまだ日が浅いのか、しっかりとした実の回りに、ねっとりとした蜜をまとっている。
義母は箸でそれを皿に載せると、湯飲みに茶を注いだ。
盆を手渡される。
「じゃ、よろしくね」
用意された二つの湯飲みが重い。
今はその一つを運ぶことでさえ苦痛なのに……。
こんなものを買ってきて、あの人はどうしようというのだろう。
小皿に盛られた枇杷の実が恨めしい。