桔梗の花咲く庭
第9話
「さ、もう一局」
「これでは、勝負にも手習いにもなりませぬ」
「私が勝てばよいのです」
小さな子供のように、この人はぷいと横を向いた。
「ですが、勝負に負けたら私は、一日言うことを聞かねばならないのでしょう?」
「そうですよ」
「それは出来ません」
同じくムッとしたその人は、私を無視したまま神妙な面持ちで盤に黒石を並べ始めた。
「十三も石を先に置くのですか!」
「今日は私が勝ちたいのです」
涼しげな顔でそう言ってのけたこの人に、さすがの私もカチンと来た。
「これで勝負をしようとは、恥ずかしくはないのですか?」
「いいえ全然。さ、始めますよ」
「出来ません!」
「では不戦敗ということで。私の勝ち」
キッとにらみつけても、一向に気にする気配はなし。
「なにかお気に召さないことでも?」
「言いたいことがあるのなら、直接言えばいいではないですか!」
「口答えは無用です。今日は一日、言うことを聞いてもらうのですから」
「いつも大概、言うことを聞いて過ごしております!」
晋太郎さんは、ふっと笑った。
「あなたは、ご自身ではそう思おいかもしれませんが、私も譲るべきところは、大いに譲っているのです」
いつになくツンとすましたその人の目が、何だか癪に障る。
譲る? 晋太郎さんが? この私に?
この人は突然、何を言い出すのだろう。
開いた口が塞がらない。
こみ上げてきた怒りに、全てがバカバカしくなってきた。
「昨夜したかったお話なら、いまお伺いします」
「それは……もういいのです」
「お話があったのではないのですか」
返事はない。
この人は横を向いたままだ。
「……。気分が悪いので休みます」
「今日一日、私の言うことを聞くというお約束は?」
「そんなのはなしです」
「それは残念」
縫いかけの小袖を手に立ち上がった。
やってらんない。
「……。私に、なにをさせたいのですか?」
「それは秘密です」
にらみつけても、ビクともしない。
「あなたと一日過ごせる日が来ることを、楽しみにしております」
ドカドカと廊下を歩き、襖をぴしゃりと閉める。
視界がにじんだ。
どうして泣いているのかも、なんで勝手に涙が出てくるのかも分からない。
意味の分からないことで、こんなくらいのことで、いちいち泣いてしまう自分に腹が立つ。
手の甲でそれを拭った。
バカみたいだ。自分が。
久しぶりに兄の顔を見たせいだ。
きっと、嫁入り前の気楽な暮らしを思い出してしまったせいだ。
ここへ来てずっと我慢してきたことが、一気にあふれ出す。
こんな理不尽なやり方で私を好きに扱えるなどと、思わないでほしい。
家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。
そんなものに夢見たことはない。
多分自分は恵まれているのだろうし、そうだとも思う。
それでも後から後からあふれ出す涙を、どう理解したらいいのかが分からない。
自分になんの選択権もないことが、悔しいんだ。
晋太郎さんに悪気のないことは分かっている。
だけどそれならばなおさら、変に誤魔化したりしないで、ちゃんと言ってほしかった。
こうやってたまり続けるオリのようなものが行きつく先で、私はどうなってしまうのだろう。
「志乃さん、入るわよ」
義母が顔を出した。
鼻水をすする私を見下ろし、ため息をつく。
「気分が悪いのね、お昼はどうする?」
「自分で……、適当に済ませますので……」
「そ。じゃあいいわね」
あの人は心配してのぞきにも来ないのに、お義母さまはちゃんと来てくれる。
なんだか本当に腹が立ってきた。
決めた。
今日はもう絶対に何もしない。
布団を取り出して、すぐその場に敷く。
空気はまた一段と涼しさを増していた。
もう夏は終わったんだ。
横になると、私は目を閉じた。
「これでは、勝負にも手習いにもなりませぬ」
「私が勝てばよいのです」
小さな子供のように、この人はぷいと横を向いた。
「ですが、勝負に負けたら私は、一日言うことを聞かねばならないのでしょう?」
「そうですよ」
「それは出来ません」
同じくムッとしたその人は、私を無視したまま神妙な面持ちで盤に黒石を並べ始めた。
「十三も石を先に置くのですか!」
「今日は私が勝ちたいのです」
涼しげな顔でそう言ってのけたこの人に、さすがの私もカチンと来た。
「これで勝負をしようとは、恥ずかしくはないのですか?」
「いいえ全然。さ、始めますよ」
「出来ません!」
「では不戦敗ということで。私の勝ち」
キッとにらみつけても、一向に気にする気配はなし。
「なにかお気に召さないことでも?」
「言いたいことがあるのなら、直接言えばいいではないですか!」
「口答えは無用です。今日は一日、言うことを聞いてもらうのですから」
「いつも大概、言うことを聞いて過ごしております!」
晋太郎さんは、ふっと笑った。
「あなたは、ご自身ではそう思おいかもしれませんが、私も譲るべきところは、大いに譲っているのです」
いつになくツンとすましたその人の目が、何だか癪に障る。
譲る? 晋太郎さんが? この私に?
この人は突然、何を言い出すのだろう。
開いた口が塞がらない。
こみ上げてきた怒りに、全てがバカバカしくなってきた。
「昨夜したかったお話なら、いまお伺いします」
「それは……もういいのです」
「お話があったのではないのですか」
返事はない。
この人は横を向いたままだ。
「……。気分が悪いので休みます」
「今日一日、私の言うことを聞くというお約束は?」
「そんなのはなしです」
「それは残念」
縫いかけの小袖を手に立ち上がった。
やってらんない。
「……。私に、なにをさせたいのですか?」
「それは秘密です」
にらみつけても、ビクともしない。
「あなたと一日過ごせる日が来ることを、楽しみにしております」
ドカドカと廊下を歩き、襖をぴしゃりと閉める。
視界がにじんだ。
どうして泣いているのかも、なんで勝手に涙が出てくるのかも分からない。
意味の分からないことで、こんなくらいのことで、いちいち泣いてしまう自分に腹が立つ。
手の甲でそれを拭った。
バカみたいだ。自分が。
久しぶりに兄の顔を見たせいだ。
きっと、嫁入り前の気楽な暮らしを思い出してしまったせいだ。
ここへ来てずっと我慢してきたことが、一気にあふれ出す。
こんな理不尽なやり方で私を好きに扱えるなどと、思わないでほしい。
家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。
そんなものに夢見たことはない。
多分自分は恵まれているのだろうし、そうだとも思う。
それでも後から後からあふれ出す涙を、どう理解したらいいのかが分からない。
自分になんの選択権もないことが、悔しいんだ。
晋太郎さんに悪気のないことは分かっている。
だけどそれならばなおさら、変に誤魔化したりしないで、ちゃんと言ってほしかった。
こうやってたまり続けるオリのようなものが行きつく先で、私はどうなってしまうのだろう。
「志乃さん、入るわよ」
義母が顔を出した。
鼻水をすする私を見下ろし、ため息をつく。
「気分が悪いのね、お昼はどうする?」
「自分で……、適当に済ませますので……」
「そ。じゃあいいわね」
あの人は心配してのぞきにも来ないのに、お義母さまはちゃんと来てくれる。
なんだか本当に腹が立ってきた。
決めた。
今日はもう絶対に何もしない。
布団を取り出して、すぐその場に敷く。
空気はまた一段と涼しさを増していた。
もう夏は終わったんだ。
横になると、私は目を閉じた。