桔梗の花咲く庭
第4話
「私がこのようなことをあなたに言うのは、おかしなことかもしれません。ですがあなたが前に、食あたりで倒れた時、私に手を伸ばしてくれたことが、とてもうれしかったのです」
静かな夜だ。
熱に浮いた私の、荒い息づかいだけが聞こえている。
「好きでもない男と一緒になった苦しみは、好きな人と一緒になれなかった自分だから分かるのです。私は嫁など取るつもりはなかった。子供のことは気になさらなくてよろしい。養子に目星があるなら、あなたの好きなようにお探しなさい。ですがせめて、ご自分のお体は大切になさってください。それだけは約束願います」
その人は立ち上がった。
部屋を出て行くのかと思ったら、隣に布団を敷く。
「申し訳ないが、今夜はここで休ませてもらいます。あなたの看病をしたいという気持ちに、嘘はありませんので」
手を伸ばせばすぐ届く距離に、この人が寝ている。
だけどその手を、伸ばしてはいけない気がした。
「私の体は心配してくださるのに、気持ちまでは察してくださらないのですか」
その人は微かな笑みを浮かべた。
それはこの人自身が、自分を笑ったのかもしれない。
「気持ちなど、誰にも分かりません」
行燈の明かりが消える。
燃え尽きた芯の香りが闇に紛れた。
今ならば私にも、言えることがある。
「あなたは……、嫁をとるつもりはなくとも、私は嫁に来ました。あなたが私を好いていないことは、百も承知です」
熱でうなされた頭がぼんやりする。
目から涙があふれるのは、そのせいだ。
こんな手ぬぐいだなんて、いらない。
「ですがせめて、大切にしているフリをしていただけるだけでも、ありがたく思うております」
取り払った手ぬぐいを、たらいに放り込む。
それはポチャンと水音を立てて沈んだ。
「ですから私のことなど、どうかお気になさらぬよう、お願いします」
翌朝になっても、熱は下がらなかった。
晋太郎さんは頑として看病を他には譲らず、ずっと枕元についている。
手ぬぐいをまめに換え、起き上がった背を支えて粥を口に運び、薬湯を飲ませる。
義母が代わると申し出ても、それを決して譲らない。
枕元で座ったままうとうととしているその人を、私は見上げた。
「あなたに好かれた方は、幸せですね」
「えぇ。あの人にもそう言っていただけましたよ」
外には季節外れの冷たい風が吹いていた。
襖の向こうで見えない板戸がガタガタと揺れている。
「早くよくなってください。もうこれ以上、大切な人を亡くしたくはないのです」
次の夜になって、さらに熱は上がった。
食事も喉を通らず、蜂蜜を溶かした白湯を口にする。
頭が割れそうなほどの痛みに、歯を食いしばる。
こめかみに浮いた汗を晋太郎さんは拭った。
「苦しいのなら、薬を追加してもらいましょうか」
「いえ……大丈夫です」
このまま寝ていれば治る。
そんな気がする。
うずくまるように背を丸め、全身を固くしている。
この人がここにいるのは、私のためじゃない。
本当は苦しくて手をつないでいてほしいのに、そんなことすら口に出来ない。
布団の外へ腕を伸ばしたら、その人は手を握った。
じっと目を閉じて動かないでいるこの人を、ただ見上げている。
そっと握り返して、私も目を閉じた。
静かな夜だ。
熱に浮いた私の、荒い息づかいだけが聞こえている。
「好きでもない男と一緒になった苦しみは、好きな人と一緒になれなかった自分だから分かるのです。私は嫁など取るつもりはなかった。子供のことは気になさらなくてよろしい。養子に目星があるなら、あなたの好きなようにお探しなさい。ですがせめて、ご自分のお体は大切になさってください。それだけは約束願います」
その人は立ち上がった。
部屋を出て行くのかと思ったら、隣に布団を敷く。
「申し訳ないが、今夜はここで休ませてもらいます。あなたの看病をしたいという気持ちに、嘘はありませんので」
手を伸ばせばすぐ届く距離に、この人が寝ている。
だけどその手を、伸ばしてはいけない気がした。
「私の体は心配してくださるのに、気持ちまでは察してくださらないのですか」
その人は微かな笑みを浮かべた。
それはこの人自身が、自分を笑ったのかもしれない。
「気持ちなど、誰にも分かりません」
行燈の明かりが消える。
燃え尽きた芯の香りが闇に紛れた。
今ならば私にも、言えることがある。
「あなたは……、嫁をとるつもりはなくとも、私は嫁に来ました。あなたが私を好いていないことは、百も承知です」
熱でうなされた頭がぼんやりする。
目から涙があふれるのは、そのせいだ。
こんな手ぬぐいだなんて、いらない。
「ですがせめて、大切にしているフリをしていただけるだけでも、ありがたく思うております」
取り払った手ぬぐいを、たらいに放り込む。
それはポチャンと水音を立てて沈んだ。
「ですから私のことなど、どうかお気になさらぬよう、お願いします」
翌朝になっても、熱は下がらなかった。
晋太郎さんは頑として看病を他には譲らず、ずっと枕元についている。
手ぬぐいをまめに換え、起き上がった背を支えて粥を口に運び、薬湯を飲ませる。
義母が代わると申し出ても、それを決して譲らない。
枕元で座ったままうとうととしているその人を、私は見上げた。
「あなたに好かれた方は、幸せですね」
「えぇ。あの人にもそう言っていただけましたよ」
外には季節外れの冷たい風が吹いていた。
襖の向こうで見えない板戸がガタガタと揺れている。
「早くよくなってください。もうこれ以上、大切な人を亡くしたくはないのです」
次の夜になって、さらに熱は上がった。
食事も喉を通らず、蜂蜜を溶かした白湯を口にする。
頭が割れそうなほどの痛みに、歯を食いしばる。
こめかみに浮いた汗を晋太郎さんは拭った。
「苦しいのなら、薬を追加してもらいましょうか」
「いえ……大丈夫です」
このまま寝ていれば治る。
そんな気がする。
うずくまるように背を丸め、全身を固くしている。
この人がここにいるのは、私のためじゃない。
本当は苦しくて手をつないでいてほしいのに、そんなことすら口に出来ない。
布団の外へ腕を伸ばしたら、その人は手を握った。
じっと目を閉じて動かないでいるこの人を、ただ見上げている。
そっと握り返して、私も目を閉じた。