桔梗の花咲く庭
第3話
「おはようございます!」
開け放したままの縁側で柱にもたれ、その人はウトウトと座っていた。
「風邪を引きますよ?」
仕上がったばかりの厚手の半纏をかけてあげる。
「あの部屋で私と寝るのがお嫌なら、こちらで寝てもらってもよいのですよ。その方が、晋太郎さんの体も休まるでしょうから」
私は大丈夫。
にっこりと微笑んで、その顔を見上げる。
「無理をするのもさせるのも、私の本意ではありませんので」
まだ幻のような感触の残る手を、ぎゅっと握りしめた。
昨夜一晩、この手を握ってくれたのは、その手だったはずなのに……。
「手をつないだことを、もう後悔しているのですか?」
肩にかけた半纏を、その人はずるりと床に落とした。
「無理とはなんのことでしょう。それは昨晩のことを言っているのですか」
「……。余計な手間をかけさせました。あのようなことは、もういたしません」
すぐに謝る。
濃い朝霧が枯れた桔梗の庭を隠していた。
この庭の手入れだけはいつもかかさない人なのに、どうしてこんな枯れ草をいつまでも放っているのだろう。
「あなたは悔やんでおいでか」
「時が過ぎても、解決しないことはあるのです」
何一つ表情を変えないこの人は、今なにを思っているのだろう。
「そうですね。分かりました。食事の前には、手を洗っておいてください」
朝餉の席について、その人は黙々と食事を済ませる。
お勤めに出る後ろ姿を見送って、ようやく緊張の糸が解けた。
あの人のいないこの家に、ほっとする。
その日は午後になって、屋敷の塀の向こうから調子外れの祭り囃子が聞こえてきた。
「明後日は酉の市ですからね。大方どこかの歌舞妓一座でも、舞台の呼び込みを始めているのでしょう」
妙善寺の酉の市だ。
参道を埋め尽くす、たくさんの屋台と人の波……。
「そんな日に出かけるもんじゃありませんよ。買い物に行くなら、日を改めないと……」
「あの、お義母さま」
私は勇気を振り絞った。
「早めに、済ましておきたい用事があるのです。本日中に出かけていっても、よろしいでしょうか」
「まぁ、いいわよ。いってらっしゃい」
今一度、あの方にお会いしたい。
義母の許しを得て、急いで部屋に駆け戻る。
文台の上で簡単に化粧を直すと、外へ飛び出した。
「志乃さま、どちらへ!」
お供を連れて行くわけにはいかないのは、行き先を知られたくないから。
町娘のようでいい。
その方に相談に行くことを、誰にも知られたくない。
勤めに出ている晋太郎さんの帰ってくるまでには、素知らぬ顔で戻っていたい。
開け放したままの縁側で柱にもたれ、その人はウトウトと座っていた。
「風邪を引きますよ?」
仕上がったばかりの厚手の半纏をかけてあげる。
「あの部屋で私と寝るのがお嫌なら、こちらで寝てもらってもよいのですよ。その方が、晋太郎さんの体も休まるでしょうから」
私は大丈夫。
にっこりと微笑んで、その顔を見上げる。
「無理をするのもさせるのも、私の本意ではありませんので」
まだ幻のような感触の残る手を、ぎゅっと握りしめた。
昨夜一晩、この手を握ってくれたのは、その手だったはずなのに……。
「手をつないだことを、もう後悔しているのですか?」
肩にかけた半纏を、その人はずるりと床に落とした。
「無理とはなんのことでしょう。それは昨晩のことを言っているのですか」
「……。余計な手間をかけさせました。あのようなことは、もういたしません」
すぐに謝る。
濃い朝霧が枯れた桔梗の庭を隠していた。
この庭の手入れだけはいつもかかさない人なのに、どうしてこんな枯れ草をいつまでも放っているのだろう。
「あなたは悔やんでおいでか」
「時が過ぎても、解決しないことはあるのです」
何一つ表情を変えないこの人は、今なにを思っているのだろう。
「そうですね。分かりました。食事の前には、手を洗っておいてください」
朝餉の席について、その人は黙々と食事を済ませる。
お勤めに出る後ろ姿を見送って、ようやく緊張の糸が解けた。
あの人のいないこの家に、ほっとする。
その日は午後になって、屋敷の塀の向こうから調子外れの祭り囃子が聞こえてきた。
「明後日は酉の市ですからね。大方どこかの歌舞妓一座でも、舞台の呼び込みを始めているのでしょう」
妙善寺の酉の市だ。
参道を埋め尽くす、たくさんの屋台と人の波……。
「そんな日に出かけるもんじゃありませんよ。買い物に行くなら、日を改めないと……」
「あの、お義母さま」
私は勇気を振り絞った。
「早めに、済ましておきたい用事があるのです。本日中に出かけていっても、よろしいでしょうか」
「まぁ、いいわよ。いってらっしゃい」
今一度、あの方にお会いしたい。
義母の許しを得て、急いで部屋に駆け戻る。
文台の上で簡単に化粧を直すと、外へ飛び出した。
「志乃さま、どちらへ!」
お供を連れて行くわけにはいかないのは、行き先を知られたくないから。
町娘のようでいい。
その方に相談に行くことを、誰にも知られたくない。
勤めに出ている晋太郎さんの帰ってくるまでには、素知らぬ顔で戻っていたい。