京都、嵐山旅館の若旦那は記憶喪失彼女を溺愛したい。
純一は春菜と視線を合わせて頷いた。


ここで下手に嘘をつけば、更に嘘を重ねることになる。


そうなれば松尾旅館の信頼は落下してしまう一方だ。


春菜は大崎様へ向き直り「昨日からここで働かせていただくようになりました」と、素直に伝えた。


大崎様は難しい表情のまま顎をさすって「そうだろうと思ったよ」と、ため息交じりに言う。


「ここの従業員がこれほど使えないとは思えないからね。それならなれるまで初心者マークをネームにつけたらどうだ?」


大崎様は純一へ向けてそう声をかけた。


その声色はさっきドアの外で聞いたよりも穏やかになっているように感じられる。


「それはいい案ですね。さっそく作って見ようと思います」


「あぁ。それじゃ、頑張れよ」


大崎様に肩を叩かれた春菜は背筋を伸ばし、お辞儀をした。


大崎様が部屋を出ていくのを待ってから春菜はおずおずと純一へ視線を向けた。


「本当にすみませんでした」


そう言ってさっきと同じくらい頭を下げると純一は左右に首を振った。


その表情に笑みはなくて胸の奥がチクリと痛む。


「記憶のない君に仕事を押し付けたのは僕ですから」


「そんな!」


「今日はもいいですから」


純一はそう言うと、そのまま部屋を出ていってしまったのだった。
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