京都、嵐山旅館の若旦那は記憶喪失彼女を溺愛したい。
「ところで、声は出ますか?」


そう聞かれて、目が覚めてから一言も発していないことに気がついた。


ためしに「あ、あ」と発音してみると、声はちゃんと出た。


でもそれはいつもの自分の声とは違い、ひどくザラついた老婆のような声でびっくりした。


「よかった。では、名前を教えてください」


男性が安心したような笑みを浮かべて言う。


名前。


名前……?


考えるとまた頭が痛くなって顔をしかめる。


「名前……」


しわがれた声でつぶやき、黙り込む。


そして血の気が引いていくのを感じた。


「顔色が悪いですよ。どうしました?」


「あの、私、自分の名前がわからないみたいです」


声に出してそう伝えると更に気分が悪くなってきて、大きく深呼吸を繰り返した。


自分の名前がわからないなんて、そんなことあるだろうか。


産まれてきてから今までずーっと使ってきた名前を、そう簡単に忘れるわけがないと思うけど……。


それでも現に私は自分の名前を思い出すことができなかった。


どれだけ真剣に考えてみても、名字の最初の文字すら出てこない。


しばらく唸り声を上げて頑張っていたけれど「ダメです。思い出せません」と、諦めてため息を吐き出した。


「そうですか」


男性は深刻な表情でなにか考え込み、そしてスマホを取り出した。
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