午後の水平線

9、ラプソディー・イン・レイン

 青年は、イスから立ち上がり、里美のテーブルに寄って来た。
 じっと、マイセンのカップを見つめている。
 青年は、里美に言った。
「 …君は… 誰だ? 」
「 は…? 」
 誰、と言われても… ただの客である。
 どう言う風に答えたら良いのか、里美は戸惑った。
「 誰って… フツーの客ですけど……? 」
 里美が答える。
 青年は、里美の顔を、じっと見つめた。
( ナニ? この人……? )
 戸惑う里美に、青年は言った。
「 このカップを使うって事の意味を、君は知っているのか? 」
 …真剣な眼差しである。 ともすれば、警戒心すら感じられる。
 里美は、見据えるかのような彼の視線に、彼の、おおよその素性を感じ取った。
 おそらく淑恵のように、彼もまた、この店の古くからの常連客なのだろう。 このカップに纏わる話も、知っているものと思われた。
 …それなら、話しは早い。
 里美は、カップを見ながら答えた。
「 存じ上げております。 このお店の、大切なカップである事も… 」
 青年は、じっと里美を見ている。
 里美は、青年の顔に視線を上げると、凛とした表情で続けた。
「 先日、保科さんから、このお店の、ロゴタイプデザインのお仕事を頂きました。 このカップは… 保科さんから、そのお礼にと、私に頂いたものです…… 」
 青年は、一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに真顔に戻った。
 視線からは、警戒するような表情が消えている。
 青年は言った。
「 …君が、デザイナーの女性か……! いや、失礼しました… もっと、年配の人かと思っていたので…… 」
 里美が挨拶をする。
「 申し送れました。 私、吉村 里美と申します 」
 一礼した里美に、青年は、慌てて頭をかきながら答えた。
「 …あ、オレ… 桂木 隼人って言います。 初めまして…… そっかぁ~、君だったんだ。 デザインしてくれた人って…! 」
 口調が、一気に穏やかになり、和やかに話し出す、彼。
 里美は尋ねた。
「 意外でした? 」
「 うん… あ、いや… そんなコト、ないケド…… 」
 妙にテレる、彼。
 里美は、カップに、そっと触れながら言った。
「 お話しをうかがって… でも、最初は、お断りしたんです。 大切なものだし、私には、高価過ぎるし…… 」
 湯気の立つカップを見つめる、里美。
 桂木、と言う青年が言った。
「 マスターから聞いてるよ。 マイセンを譲る人が現れた、ってね…… マスターが選んだ人なら、オレらが、とやかく言う事じゃない。 ただ、そのマイセンが、棚から外へ出たトコを見たのは、初めてだったんでね。 どんな人なのか、確かめたかったんだ 」
 カップを持ち、里美は言った。
「 ひと口、飲まれます? 」
「 だだ… だ、だめだよ、そんな事! 回し飲みなんて出来るカップじゃないよ……! 」
 …それも、そうだ。 第一、保科に対して失礼だ。
 思わず、口にしてしまった言葉を恥じ入る、里美。
 桂木は言った。
「 よく、この店には来るの? 」
「 仕事で… 今日も、その帰りです 」
「 ふ~ん… デザイナーかぁ~… カッコいいね 」
 自分のテーブルにあったカップを取り、飲みながら言う桂木。
 座っていたので分からなかったが、随分と身長がある。 保科と、同じくらいはあるだろうか。
 里美も、残りのコーヒーを飲みながら尋ねた。
「 大した事、ありませんよ。 桂木… さん、でしたっけ? 音楽をされるんですか? 素敵ですね 」
 桂木は、笑って答えた。
「 まだまだ、駆け出しの根無し草だよ。 音楽だけじゃ食って行けないから、毎日、バイトさ。 フリーターのようなもんだ 」
 里美の横にあったイスに座り、頭をかく桂木。
「 今日は、バイトも休みだったんで、ドライブがてら来たんだ。 オレ、元々、コッチの出だから 」
「 そうなんですか… いい所ですよね、ココ。 私、一度で気に入ってしまって…… 」
 海の方に目を向ける、里美。
 桂木も言った。
「 ああ。 マスターもいい人だし… 景色も、最高さ。 時々、この店で演奏するんだぜ? 」
「 へええ~? ライブ、出来るんですか? ここ 」
 桂木は、窓越しに店内を指差し、言った。
「 ほら、あそこに、ピアノがあるだろ? 」
 トイレの入り口脇に、観葉植物に囲まれるようにして、木目調の古ぼけたピアノが置いてあった。
「 まあ、気が付かなかったわ…! 」
 桂木は、ウッドベースを弾く格好をしながら、里美に言った。
「 マスターってさ、ベース、ウマイんだぜ? 」
 これも、初耳だ。 だが、似合いそうである。
 桂木が続ける。
「 オレは、ジャズピアノで、マスターはクラシックなんだ。 だから、お互いに、マニアックな曲はやらず、軽いポップスの曲をね… 」
 これは、面白そうな情報である。
 それに、この桂木と言う青年も… 最初は、厳つそうな雰囲気ではあったが、こうして話してみると、里美と年齢も近そうで、親しみやすい。
 桂木は、保科が自らが、カップを託した人物である観点を評価しているのか、当初あった里美に対する警戒心のような表情を払拭させていた。
 …保科には、人生の先輩としての、尊敬の念を抱いている…
 桂木からは、そんな感じが受け取れた。
( 保科さんの… 人柄に引かれた人たちが、この店には来るんだわ…… )
 里美は、無性に嬉しくなった。
「 桂木さん、幾つ? 」
 里美が、尋ねる。
「 23だよ 」
「 あら、じゃあ、私の方が少し、お姉さんね 」
「 え? そうなの? 年下だと思ってた 」
「 失礼ねぇ~、そんなに、子供っぽく見えるかしら? 」
 カップを持ちながら言う、里美。
 桂木は、頭をかきながら釈明する。
「 いや、そんなコト… 可愛い人だな、って思ったから… 」
「 まあ… 今度は、お世辞? ナニも出ないわよ? 」
 容姿を誉められた事は、一度も無い。
 自分では、幼稚な行動は、控えているつもりではあるが、基本的には、お茶目な里美。
 その辺りの雰囲気を垣間見て、『 可愛い 』と、桂木は、言ったのかもしれない。 本当は、『 綺麗 』とか、『 魅力的 』とか、言って欲しかったのではあるが……

 新しい知人、桂木。
 里美は、彼を気に入った。
 保科に対して、尊敬の意を感じているような雰囲気でもあったからだ。

 飲み干したカップをソーサーに置き、里美は言った。
「 ジャズの譜面、書いてたのね? 」
 桂木は、自分のテーブルの上に散らばっている楽譜に目をやりながら、答える。
「 いや、残念ながら違ってさ… 今度、知人が経営している小さなバーで、演奏があってね。 常連さんたちの、平均年齢が高くてさぁ… 演歌とか、懐メロをやんなくちゃならないんだ。 参ったな~…… 」
 里美は、クスッと笑いながら、答えた。
「 それで頭、かきむしってたのね? 」
「 この景色に、演歌だぜ? 全く、ミスマッチだよ 」
 また、頭をかきながら、桂木は言った。
「 落ち着いた景色を見ながら書こうと思ったのが、アダになった訳ね 」
「 そんな所さ 」
 小さなため息を尽き、苦笑いして見せる、桂木。
 保科が、水の入ったピッチャーを持って、テラスに出て来た。
「 カップを、お下げ致します 」
「 …あ、有難うございます 」
 里美のカップをトレイに載せながら、保科は、言った。
「 お味の方は、いかがでしたか? 」
 里美は、保科の顔を見上げ、微笑みながら、答える。
「 …世界で、一番美味しいと思います……! 」
 それを聞き、満足気に、微笑を返す保科。
「 有難うございます…… 」
 静かにそう言うと、里美のグラスに水を注いだ。
 一礼する、里美。

 ……音も無く降る、優しい雨の叙情が、里美と保科を包む……
 保科の、里美に向けられた厚意……
 里美の、保科に対する淡い恋愛感情……
 時が止まったかのような、静かな間合いが、2人の間に流れた。

 突然、桂木は、何かに取り憑かれたように、テーブルに向かった。 散らばっていた楽譜を隅に寄せ、慌てて新しい五線譜に、ペンを走らせる。
 里美は、桂木に尋ねた。
「 何か、良いフレーズでも浮かんだの? 桂木さん 」
「 そのまま… 黙って、海を見ててくれないか……? 」
「 ? 」
 保科は、無言で、桂木のグラスにも水を注いだ。
 里美の方を向き、左手で持っていたトレイにピッチャーを乗せると、空いた右手で人差し指を立て、すぼめた口元に立てる。
『 お静かに…… 』
 そんな表情と、笑顔を見せると、保科は店内に戻って行った。
( ……どう言うこと? )
 ぽか~んとしている里美に、桂木は、ペンを走らせ、下を向いたまま言った。
「 …イイ感じのイメージが、湧いたんだ…! 今の、保科さんと里美さんの、やり取り…… 何か、こう… 刹那さがあってさ……! 」
「 …… 」
 里美の胸が、トクン、とする。
 桂木には、感じ取れたのだろうか。 保科の優しさ… 里美の、淡い恋心…

 霧のように降り続ける、細い雨……
 かすかな胸の鼓動を感じながら、桂木に言われるがまま、遠く、グレーに煙る水平線を眺めている、里美だった。
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