sugar spot
謎の動悸に襲われて、またブース準備に取り掛かりつつ深呼吸をしていると背後から「おい」と呼びかけられ、整わせた筈の鼓動は、また簡単に乱れた。
「……な、なに!」
「チラシ。」
「は?」
「そこのチラシ取って。ビラ配り班で分けるから。」
平然と、私のすぐ側で山積みされたチラシを指差され、そう言われた。
…変に動揺した自分が馬鹿みたいだった。
「どうぞ!!」
「…何をキレてんの。」
は?と怪訝な顔をした男を、「確かにお門違いだな」と流石に反省しつつ見上げる。
やっぱり女子も羨やむような、きめの細かい肌に中性的なパーツばかり配置された面立ちだ。
「別になんでも無いです。」
「梨木。」
その両手にちゃんと乗るようにチラシの束を手渡した拍子に触れてしまった男の体温は、当然、自分のものとは違う。
「…なに。」
「今日覚えてるよな。」
「…え、」
そのことに気付いた瞬間、不意をつくように名前を呼ばれて、更に畳み掛けるように確認の言葉を食らう。
整った瞳がつくる眼差しは、いつも鋭い。
「何。忘れた?」
「いや、お、覚えてる。」
見下ろされる双眸に促されて答えながら、「昨日のメッセージのことじゃなかったらどうしよう」と一抹の不安を抱いたけど、私が答えたら浅く頷かれたので、間違えてはなかったらしい。
「お前、午前がブースで、午後からビラ配りだろ。」
「あ、うん。」
今日は、昨日のようにビラ配りだけじゃなくて、ちひろさんにも付き合ってもらいながら、ブースでクライアントの方と話をする時間がある。
それは当然この男も同じで、だけどスケジュール的には私と真逆だ。
有里は、午後から古淵さんと一緒にブースを担当する。
「……じゃ、行くわ。」
つまり、私が渡したチラシの束を抱えてそのまま去ろうとする男とは、今日はもうこの後、展示会が終わるまでは顔を合わせないかもしれない。
「あ、ありさと…っ!」
そう思ったらどうしてだか、
何かを考える前に名前を呼んでいて。
「そんな顔、あんたに珍しいね」と言ってやりたくなるくらい驚いた表情でこちらを振り返る男を見たら、また言葉が勝手に滑り落ちた。
「わ、私も、話あるから!」
「……、」
「だ、だから忘れないでちゃんと…来て、」
最初は勢いで宣言して、だけど「別に態々言う必要無かったのでは」ともう1人の自分が突っ込んだら、最後は尻すぼみになった。
私、こんなに人と話すの苦手だっただろうかと、この男を前にすると歯切れの悪くなる自分に、いつも思う。
「……俺から言っておいて忘れるかよ馬鹿。」
おい文末でもなんでも「馬鹿」は聞き逃さないぞと、ムッとした顔で落としていた視線を勢いよく上げたら、微かに口角を上げた男が居た。
「ちゃんと聞くから大人しく働けよ。」
「…うざ、あんた前科あること忘れないでよ。」
「何がだよ。
とりあえず今日は、
俺が逃がさないから安心すれば。」
逃がさないって、なんだ。
最後の言葉を反芻して、面食らう私を満足そうに見守った男は、そのまま、まるで言い逃げのように走り去って行った。
「梨木ちゃん、今日来訪予定のクライアントのリストだけど……え、顔すごい赤い!?」
その背中を見ていたら、側に資料片手にやって来たちひろさんから、自分も嫌と言うほど自覚してしまう指摘を受ける。
「だ、大丈夫です。
えっと、な、なんでしたっけ。
あ、このTシャツダサいですよね。」
「うん、全然話の内容が違う!?大丈夫!?」
本気で気を遣ってくれてしまった彼女に、大丈夫です、と答えつつ、胸を打つスピードはそこから暫く速さを伴ったままだった。