めぐる鍵、守護するきみ-鍵を守護する者-
エピソード0
歯車は動き出す
「静っ!」
甲高い声が辺りに響く。声を発した少女の目線の先には一人の少年の姿があった。白い羽織を纏い、銀色の髪は後ろで一つに括られている。
名を呼ばれた少年は、すぐさまその手に持っていた拳銃のような武器を構える。
「────っ!」
三発ほど音を鳴らし、向かってくる《モノ》に応戦する。
それは明らかに人間ではない異形だった。
少年に向かっていたそれは、彼の放った攻撃が命中したのか先程よりも幾分か動きが鈍くなる。
「巴っ! 頼む!」
すかさず少年が先程の少女に叫ぶ。少女はその前にしっかり態勢を整え、それに向かって走り始めていた。
少女の手にはその小さな身体に似つかわしくない、剣のようなものが握られている。黄金色の柄、銀に輝く刃。着物に似た装束に、少年と同じ白い羽織を纏う。
黒髪の長い髪を靡かせながら、少女はただ真っ直ぐに剣を構え言葉を紡いだ。
「その身に宿す魔の力──。ここに散れ……!」
言いながら少女は禍つものへ切っ先を振る。
「天浄清礼───!」
剣はそれを捉えた。その瞬間異形のものから奇声が上がる。
『オノレ……鍵の守護者……!』
その場が光で覆われる。
立ち込めていた禍々しい気はそれを以て消え去り、後には小さな植物の種のようなものが残っただけであった。
「美都!」
名前を呼ばれて、その少女は振り返る。
「おはよう」
よくある学生服に身を包まれ、まだあどけなさを残す美都と呼ばれる少女は笑顔で友人と朝の挨拶を交わした。
都内の公立中学校。月代美都はそこに通う中学三年生だ。
普段通りの登校風景。同じ制服を纏った生徒の中でも後ろ姿は際立って目立つ方では無い。同学年の生徒と並んでも身長も体型も平均的。彼女の生まれ持った茶色の髪も都会の中学生には珍しくはない。肩にかかる髪の毛を束ねることはせず、スタンダードなセーラー服の襟にその色がよく映える。
「おはよう!」
先ほど、美都を呼んだ友人が彼女に駆け寄ってくる。
「昨日、大丈夫だった?」
「うん特には。ありがとね」
誰かに気遣うかのように小声で話しかける。趣旨がわからないため特に小声にする必要はないのだが。
美都に話しかけた少女は、彼女よりはるかに他者の目を惹く容姿をしていた。金色の髪に碧い瞳。左寄りの前髪には淡い紫色のヘアピンを付けている。猫っ毛のような髪は襟足で綺麗に揃えられている。身長は美都と変わらないくらいだ。
二人は校舎に向かって歩を進める。
「もう……ひと月くらいね? 今回で4回目?」
「そうだね。やっと慣れてきた感じかな」
彼女たちの話していることは傍から聞けば習い事のようにも感じる。が、もちろんそうではない。
4月の下旬。中学3年生に進級し受験生と言えど生活も徐々に安定してくる頃だ。
「どこも怪我してない?」
「心配性だなあ、凛は」
「だって……」
美都が凛と呼ぶ少女に肩を竦めふっと微笑む。
金髪の少女の名は夕月凛。先ほどから続く会話の通り、美都のことが心配でならないらしい。だが彼女が心配するのも無理はない。美都は普通の中学生とは違う生活を送っているのだから。
「あんなの……普通じゃないもの……」
「確かにね……。まだわかんないことだらけだよ。一体何が目的で、何を探しているのか……」
美都が溜め息をつく。彼女が考えていることは凛が抽象的に表現したものについてだ。
隣で凛も訝しげな表情になる。新緑の季節が間近に迫っていながら、その顔はあまり晴れ晴れとはしない。ふと凛が思いついたように美都に声をかける。
「そう言えば、今日あの子は?」
「ああ、朝練なんだって。試合が近いからって。ほら」
「昨日あんなことがあったのに、……元気ね」
「ねー」
美都が目線でグラウンドの方を指す。凛が話題に出した人物が集団でスポーツに取り組んでいるグループの中に見えた。
校舎へ向かうには競技用のグラウンドの端を通ることになっている。都内にしては拓けたところに学校があり、校門へ行くまでの一般道からでも充分確認することができる。
その中に件の人物の姿があった。つい目で追ってしまう。
美都と凛の会話はおおよそ中学生とは思えない発言だったが昨夕のことを考えるとまあ無理もない。それは美都が『普通の中学生と違う』ことに繋がる内容だ。
彼女たちの会話の端々にどことなく非日常が垣間見えるのも、全てはひと月前の出来事が発端だった。否、或いはその前から兆候はあったのかもしれない。だが、真実としてはあの日からが始まりなのだろう。
美都は目を細めてその時のことを思い出していた。
『鍵を、守ってください』
目の前に現れたその人はただそう言った。
◇
3月の下旬、まだ少し肌寒い日が続くが季節は春へと向かっていた。美都は新学期に向けて必要なものを買い揃えるべく駅前の商店街まで出ていた。都心からはやや離れているものの、やはりこの時期はどこも繁雑としている。
既に用事を終えていた美都は、駅前の洒落た喫茶店を横目に帰路につこうとした。
「あれ? 美都?」
不意に名前を呼ばれ振り返る。そこにいたのは同級生の川瀬春香だった。
「やっぱり。買い物?」
「うん。もう終わったから帰ろうかなってところ。春香は……塾?」
「そ。今日はこれから1コマだけ。やっと春期講習終わるよー」
「わー……お疲れ様」
新学期とはいうが特に何もなく、ただ学年が一つ上がるだけだと思っていた。ただし、世間的には受験生というオプションが課せられる。
立ち並ぶ学習塾の垂れ幕は必勝などの熱い言葉が押し出されており、美都自身は通っていないもののさすがに自覚せざるをえない。
「それじゃ、1コマ頑張ってきますか」
「うん、頑張ってね。また学校で!」
これから塾の講習へ向かう春香を励ましつつ他愛ない会話をして別れ、再び歩きだした。
商店街の横道を入ると、先程の賑やかさが嘘のように静かになる。ここから家まで徒歩で20分程の距離だ。
(! ……今日は聴こえる)
家から商店街までの道程は途中まで美都の通う学校と同じルートを辿る。時折、どこからかは定かではないがピアノの音が聞こえてくるのだ。曲名はわからないが常に同じ曲で、その音はどこか寂しい感じがした。
(──どこから……?)
閑静な住宅街の間から零れるようにピアノの音が聴こえる。その音を探すように無意識に足が動いた。通学路に使う通りは細い道が多く一軒家が立ち並ぶ。美都は時々立ち止まり、音色に耳を傾けてはその方向を目指し歩いた。
どんどん知らない景色になっていく。迷う事はないと思っているものの、少し落ち着かない。
(……あれ?)
音を探してさまよっていると、普段は通らない道に小さな礼拝堂を見つけ思わず立ち止まった。キラキラと光る窓際のステンドグラスに惹かれ、扉の前まで歩を進める。
こじんまりとしていて意識しなければ見逃してしまいそうだ。だが、何か惹かれるものがあった。音の出所でないことはわかっていたが、好奇心を抑えきれず開いていた扉から建物の中へと進んだ。
「綺麗……」
思わず漏れた声が小さく反響する。淀みない空気が心地良い感じがした。外から見るより思った以上に天井は高く、中も整備されていた。一般的な教会と造りはほぼ変わりない。
先程のピアノの音もかすかに聞こえる。
内装を見たらすぐに出ようと思っていたのだが、ひときわ光るものが美都の目に入ってきた。
「……?」
中央の通路を進んだ先に、それはあった。引き寄せられるように、中央の床に落ちていたそれを拾い上げる。
(指輪……?)
金色の環には透き通った赤色の溝が彫られている。ステンドグラスから差し込む光にあてるとそれは一層黄金色に輝いた。
「あらあら、可愛らしいお客様だこと」
「──!」
突然自分ではない声が響き、美都はハッと我に還る。前方から聞こえた声の方に目線を向けると、紺色のロングワンピースを着た女性が微笑んでいた。
「あ……す、すみません! 勝手に入ってしまって……」
「いえいえ。ここに来たということは導かれたのでしょうから」
美都はまず無許可で屋内に入ったことを謝罪したが、女性は先程と同じく柔らかい声で応答した。
不思議な雰囲気を纏っていた。年配ではあるものの背筋はしっかりと伸び、美都の元へ歩いてくる足取りも年齢を感じさせない。
「……!」
傍へ来て美都の顔を確認した瞬間、女性は何かを察したように美都をまじまじと見つめた。
「あなた……月代、さん……?」
「え……? あ、はい。月代美都と言います。あの、どこかで……?」
突然名前を呼ばれたため一瞬戸惑ったものの、しっかりと名前を名乗る。以前どこかで会っただろうかと考えたが、直近では思い当たる節がなかった。
女性は美都の顔をじっと見つめたあと首を振った。
「いいえ、突然ごめんなさい。あら? それは──……」
美都の手元にあった指輪を発見して女性が声を発する。
「あっ、これ……! ここで拾いました」
思い出したように美都は先程の指輪を差し出す。その指輪を見て女性は大きく目を見開いた。そして事態を把握したかのように小さく頷く。
「そう……。なら、それはあなたのものです」
「えっ? でも……」
大切な物なんじゃないんですか、と言う前に女性はゆっくりと言葉を繋ぐ。
「それがあなたを選んだのなら……、あなたにとってそれは必要な物よ」
しっかりとした造りのものだ。高価そうにも見える。ただ拾っただけの自分が持って帰ってよいものではないと考えた。それに女性の言い方は、この指輪がまるで意思を持っているかのようにも聞こえる。
思いがけない回答に困惑していると、女性は目を瞑り小さく呟いた。
「───これも、お導きなのでしょうね」
「え?」
そう言うと美都へ近づき、手のひらに置かれていた指輪をそっと手に取り、彼女の右手を持ち上げた。
「この指輪は守護するための力。鍵はあなたのすぐ傍に」
「鍵──……?」
「鍵の守護者。どうか鍵を守ってください」
女性は、美都の右手中指に先程の指輪を通した。その仕種を見ながら思わず息を呑む。それは美都の指にぴったりと収まったからだ。
「今はまだ、それに力はありません。ですがあなたが本当に強く望んだとき……必ずあなたの力になるでしょう」
美都は自分の右手を逸らし、はまった指輪を不思議そうに眺めた。
「鍵の守護者……?」
「鍵は世界を司るもの。世界の均衡を保つものです」
「それはどこにあるんですか?」
その問いに女性は少しだけ目を細めて静かに答えた。
「──……心のカケラ。その中にあると言われています」
「こころの……かけら……?」
美都はまたオウム返しのように呟く。曖昧な回答であると自分でも悟ったのか女性は首を横に振った。
「いえ。……いずれにせよすぐにわかることです」
「……?」
次から次へと聞きなれない単語が出てくることにより、美都の疑問は増えるばかりだった。その表情から意図を汲みとったのか、女性は姿勢を正すと真直ぐな瞳で美都に語りかける。
「──これから先、きっと今までに経験したことのない困難があなたを待ち受けるでしょう」
予想だにしない言葉に、今度は美都が驚いて目を開いた。
女性は美都の手におさまった指輪を撫でるようにその手を包み込み言葉を紡ぐ。
「それでも忘れないでください。信じることを。自分を。周りの人を。あなたはひとりではないのですから」
ただ驚いて硬直している美都を見つめ、女性は優しく微笑んだ。
「大丈夫です。あなたなら、きっと」
女性の言葉は不思議と自分の中に沁みこんでいく。その言葉にはどこか力があるように感じた。
この女性はいったい、何者なのだろうという疑問がいまさら浮上してきた。
「まずはその指輪の示す方へ。向かってください」
「──あなた、は……」
やっと出た声は少し上ずる。それが少し恥ずかしくもあったがそれよりもただ、目の前の女性のことが気になった。
女性は握っていた美都の手を離し、再び背筋を伸ばして応える。
「わたしの名前は菫。なにかあればここへ来てください。あなたが迷ったとき、少なからず手助けができるはずです」
菫と名乗るその女性は凛とした面持ちで美都に告げる。
──かすかに聞こえていたピアノの音は、いつの間にか消えていた。
◇
戸惑いながら礼拝堂を後にする美都を見送った菫は、一人その場所に残った。
様々な思いが交錯する。しかし、ただひとつ願うのことは──。
「どうか彼女の行く先に、幸多からんことを」
誰もいない礼拝堂に、菫の声だけが小さく響いた。
甲高い声が辺りに響く。声を発した少女の目線の先には一人の少年の姿があった。白い羽織を纏い、銀色の髪は後ろで一つに括られている。
名を呼ばれた少年は、すぐさまその手に持っていた拳銃のような武器を構える。
「────っ!」
三発ほど音を鳴らし、向かってくる《モノ》に応戦する。
それは明らかに人間ではない異形だった。
少年に向かっていたそれは、彼の放った攻撃が命中したのか先程よりも幾分か動きが鈍くなる。
「巴っ! 頼む!」
すかさず少年が先程の少女に叫ぶ。少女はその前にしっかり態勢を整え、それに向かって走り始めていた。
少女の手にはその小さな身体に似つかわしくない、剣のようなものが握られている。黄金色の柄、銀に輝く刃。着物に似た装束に、少年と同じ白い羽織を纏う。
黒髪の長い髪を靡かせながら、少女はただ真っ直ぐに剣を構え言葉を紡いだ。
「その身に宿す魔の力──。ここに散れ……!」
言いながら少女は禍つものへ切っ先を振る。
「天浄清礼───!」
剣はそれを捉えた。その瞬間異形のものから奇声が上がる。
『オノレ……鍵の守護者……!』
その場が光で覆われる。
立ち込めていた禍々しい気はそれを以て消え去り、後には小さな植物の種のようなものが残っただけであった。
「美都!」
名前を呼ばれて、その少女は振り返る。
「おはよう」
よくある学生服に身を包まれ、まだあどけなさを残す美都と呼ばれる少女は笑顔で友人と朝の挨拶を交わした。
都内の公立中学校。月代美都はそこに通う中学三年生だ。
普段通りの登校風景。同じ制服を纏った生徒の中でも後ろ姿は際立って目立つ方では無い。同学年の生徒と並んでも身長も体型も平均的。彼女の生まれ持った茶色の髪も都会の中学生には珍しくはない。肩にかかる髪の毛を束ねることはせず、スタンダードなセーラー服の襟にその色がよく映える。
「おはよう!」
先ほど、美都を呼んだ友人が彼女に駆け寄ってくる。
「昨日、大丈夫だった?」
「うん特には。ありがとね」
誰かに気遣うかのように小声で話しかける。趣旨がわからないため特に小声にする必要はないのだが。
美都に話しかけた少女は、彼女よりはるかに他者の目を惹く容姿をしていた。金色の髪に碧い瞳。左寄りの前髪には淡い紫色のヘアピンを付けている。猫っ毛のような髪は襟足で綺麗に揃えられている。身長は美都と変わらないくらいだ。
二人は校舎に向かって歩を進める。
「もう……ひと月くらいね? 今回で4回目?」
「そうだね。やっと慣れてきた感じかな」
彼女たちの話していることは傍から聞けば習い事のようにも感じる。が、もちろんそうではない。
4月の下旬。中学3年生に進級し受験生と言えど生活も徐々に安定してくる頃だ。
「どこも怪我してない?」
「心配性だなあ、凛は」
「だって……」
美都が凛と呼ぶ少女に肩を竦めふっと微笑む。
金髪の少女の名は夕月凛。先ほどから続く会話の通り、美都のことが心配でならないらしい。だが彼女が心配するのも無理はない。美都は普通の中学生とは違う生活を送っているのだから。
「あんなの……普通じゃないもの……」
「確かにね……。まだわかんないことだらけだよ。一体何が目的で、何を探しているのか……」
美都が溜め息をつく。彼女が考えていることは凛が抽象的に表現したものについてだ。
隣で凛も訝しげな表情になる。新緑の季節が間近に迫っていながら、その顔はあまり晴れ晴れとはしない。ふと凛が思いついたように美都に声をかける。
「そう言えば、今日あの子は?」
「ああ、朝練なんだって。試合が近いからって。ほら」
「昨日あんなことがあったのに、……元気ね」
「ねー」
美都が目線でグラウンドの方を指す。凛が話題に出した人物が集団でスポーツに取り組んでいるグループの中に見えた。
校舎へ向かうには競技用のグラウンドの端を通ることになっている。都内にしては拓けたところに学校があり、校門へ行くまでの一般道からでも充分確認することができる。
その中に件の人物の姿があった。つい目で追ってしまう。
美都と凛の会話はおおよそ中学生とは思えない発言だったが昨夕のことを考えるとまあ無理もない。それは美都が『普通の中学生と違う』ことに繋がる内容だ。
彼女たちの会話の端々にどことなく非日常が垣間見えるのも、全てはひと月前の出来事が発端だった。否、或いはその前から兆候はあったのかもしれない。だが、真実としてはあの日からが始まりなのだろう。
美都は目を細めてその時のことを思い出していた。
『鍵を、守ってください』
目の前に現れたその人はただそう言った。
◇
3月の下旬、まだ少し肌寒い日が続くが季節は春へと向かっていた。美都は新学期に向けて必要なものを買い揃えるべく駅前の商店街まで出ていた。都心からはやや離れているものの、やはりこの時期はどこも繁雑としている。
既に用事を終えていた美都は、駅前の洒落た喫茶店を横目に帰路につこうとした。
「あれ? 美都?」
不意に名前を呼ばれ振り返る。そこにいたのは同級生の川瀬春香だった。
「やっぱり。買い物?」
「うん。もう終わったから帰ろうかなってところ。春香は……塾?」
「そ。今日はこれから1コマだけ。やっと春期講習終わるよー」
「わー……お疲れ様」
新学期とはいうが特に何もなく、ただ学年が一つ上がるだけだと思っていた。ただし、世間的には受験生というオプションが課せられる。
立ち並ぶ学習塾の垂れ幕は必勝などの熱い言葉が押し出されており、美都自身は通っていないもののさすがに自覚せざるをえない。
「それじゃ、1コマ頑張ってきますか」
「うん、頑張ってね。また学校で!」
これから塾の講習へ向かう春香を励ましつつ他愛ない会話をして別れ、再び歩きだした。
商店街の横道を入ると、先程の賑やかさが嘘のように静かになる。ここから家まで徒歩で20分程の距離だ。
(! ……今日は聴こえる)
家から商店街までの道程は途中まで美都の通う学校と同じルートを辿る。時折、どこからかは定かではないがピアノの音が聞こえてくるのだ。曲名はわからないが常に同じ曲で、その音はどこか寂しい感じがした。
(──どこから……?)
閑静な住宅街の間から零れるようにピアノの音が聴こえる。その音を探すように無意識に足が動いた。通学路に使う通りは細い道が多く一軒家が立ち並ぶ。美都は時々立ち止まり、音色に耳を傾けてはその方向を目指し歩いた。
どんどん知らない景色になっていく。迷う事はないと思っているものの、少し落ち着かない。
(……あれ?)
音を探してさまよっていると、普段は通らない道に小さな礼拝堂を見つけ思わず立ち止まった。キラキラと光る窓際のステンドグラスに惹かれ、扉の前まで歩を進める。
こじんまりとしていて意識しなければ見逃してしまいそうだ。だが、何か惹かれるものがあった。音の出所でないことはわかっていたが、好奇心を抑えきれず開いていた扉から建物の中へと進んだ。
「綺麗……」
思わず漏れた声が小さく反響する。淀みない空気が心地良い感じがした。外から見るより思った以上に天井は高く、中も整備されていた。一般的な教会と造りはほぼ変わりない。
先程のピアノの音もかすかに聞こえる。
内装を見たらすぐに出ようと思っていたのだが、ひときわ光るものが美都の目に入ってきた。
「……?」
中央の通路を進んだ先に、それはあった。引き寄せられるように、中央の床に落ちていたそれを拾い上げる。
(指輪……?)
金色の環には透き通った赤色の溝が彫られている。ステンドグラスから差し込む光にあてるとそれは一層黄金色に輝いた。
「あらあら、可愛らしいお客様だこと」
「──!」
突然自分ではない声が響き、美都はハッと我に還る。前方から聞こえた声の方に目線を向けると、紺色のロングワンピースを着た女性が微笑んでいた。
「あ……す、すみません! 勝手に入ってしまって……」
「いえいえ。ここに来たということは導かれたのでしょうから」
美都はまず無許可で屋内に入ったことを謝罪したが、女性は先程と同じく柔らかい声で応答した。
不思議な雰囲気を纏っていた。年配ではあるものの背筋はしっかりと伸び、美都の元へ歩いてくる足取りも年齢を感じさせない。
「……!」
傍へ来て美都の顔を確認した瞬間、女性は何かを察したように美都をまじまじと見つめた。
「あなた……月代、さん……?」
「え……? あ、はい。月代美都と言います。あの、どこかで……?」
突然名前を呼ばれたため一瞬戸惑ったものの、しっかりと名前を名乗る。以前どこかで会っただろうかと考えたが、直近では思い当たる節がなかった。
女性は美都の顔をじっと見つめたあと首を振った。
「いいえ、突然ごめんなさい。あら? それは──……」
美都の手元にあった指輪を発見して女性が声を発する。
「あっ、これ……! ここで拾いました」
思い出したように美都は先程の指輪を差し出す。その指輪を見て女性は大きく目を見開いた。そして事態を把握したかのように小さく頷く。
「そう……。なら、それはあなたのものです」
「えっ? でも……」
大切な物なんじゃないんですか、と言う前に女性はゆっくりと言葉を繋ぐ。
「それがあなたを選んだのなら……、あなたにとってそれは必要な物よ」
しっかりとした造りのものだ。高価そうにも見える。ただ拾っただけの自分が持って帰ってよいものではないと考えた。それに女性の言い方は、この指輪がまるで意思を持っているかのようにも聞こえる。
思いがけない回答に困惑していると、女性は目を瞑り小さく呟いた。
「───これも、お導きなのでしょうね」
「え?」
そう言うと美都へ近づき、手のひらに置かれていた指輪をそっと手に取り、彼女の右手を持ち上げた。
「この指輪は守護するための力。鍵はあなたのすぐ傍に」
「鍵──……?」
「鍵の守護者。どうか鍵を守ってください」
女性は、美都の右手中指に先程の指輪を通した。その仕種を見ながら思わず息を呑む。それは美都の指にぴったりと収まったからだ。
「今はまだ、それに力はありません。ですがあなたが本当に強く望んだとき……必ずあなたの力になるでしょう」
美都は自分の右手を逸らし、はまった指輪を不思議そうに眺めた。
「鍵の守護者……?」
「鍵は世界を司るもの。世界の均衡を保つものです」
「それはどこにあるんですか?」
その問いに女性は少しだけ目を細めて静かに答えた。
「──……心のカケラ。その中にあると言われています」
「こころの……かけら……?」
美都はまたオウム返しのように呟く。曖昧な回答であると自分でも悟ったのか女性は首を横に振った。
「いえ。……いずれにせよすぐにわかることです」
「……?」
次から次へと聞きなれない単語が出てくることにより、美都の疑問は増えるばかりだった。その表情から意図を汲みとったのか、女性は姿勢を正すと真直ぐな瞳で美都に語りかける。
「──これから先、きっと今までに経験したことのない困難があなたを待ち受けるでしょう」
予想だにしない言葉に、今度は美都が驚いて目を開いた。
女性は美都の手におさまった指輪を撫でるようにその手を包み込み言葉を紡ぐ。
「それでも忘れないでください。信じることを。自分を。周りの人を。あなたはひとりではないのですから」
ただ驚いて硬直している美都を見つめ、女性は優しく微笑んだ。
「大丈夫です。あなたなら、きっと」
女性の言葉は不思議と自分の中に沁みこんでいく。その言葉にはどこか力があるように感じた。
この女性はいったい、何者なのだろうという疑問がいまさら浮上してきた。
「まずはその指輪の示す方へ。向かってください」
「──あなた、は……」
やっと出た声は少し上ずる。それが少し恥ずかしくもあったがそれよりもただ、目の前の女性のことが気になった。
女性は握っていた美都の手を離し、再び背筋を伸ばして応える。
「わたしの名前は菫。なにかあればここへ来てください。あなたが迷ったとき、少なからず手助けができるはずです」
菫と名乗るその女性は凛とした面持ちで美都に告げる。
──かすかに聞こえていたピアノの音は、いつの間にか消えていた。
◇
戸惑いながら礼拝堂を後にする美都を見送った菫は、一人その場所に残った。
様々な思いが交錯する。しかし、ただひとつ願うのことは──。
「どうか彼女の行く先に、幸多からんことを」
誰もいない礼拝堂に、菫の声だけが小さく響いた。
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