めぐる鍵、守護するきみ-鍵を守護する者-
桜の花が色づく季節に
まだ新品の香りが残る寝具の中、美都は目を覚ました。
4月だというのに肌寒い日が続く。布団をしっかりと被らないと風邪を引きそうな程寒い。冷え切った空気が、頬を刺した。
寝ぼけ眼で枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし画面を確認する。新しい月に替わり、早くも一週間が過ぎようとしていた。
日付は4月7日。今日から新学期が始まるのだ。
◇
あっという間に春休みが終わった。
だが部活動で毎日のように学校へ通っていたおかげか、制服を着るのは特段久しぶりでは無い。着なれたセーラー服を身に纏い姿見で確認する。この制服を着るのもあと1年ということだ。そう思うとなんだか感慨深い。
鏡を見ながら胸元のリボンを整えて自室を後にした。扉を閉めて真直ぐに歩くとすぐにリビングダイニングになる。そこには既に同居人である向陽四季の姿があった。
「おはよう」
「ああ、おはよ」
朝の挨拶を交わし、美都は洗面所へ向かう。
この生活を始めて1週間になる。初めての異性との共同生活に戸惑いながらなんとか日々過ごしてきた。お互いにまだ手探りといった状況で、広いリビングで同じ時間を過ごしたことはほとんどない。過度な干渉は避けているというような感じだ。
というのも、当初言われていた守護者としての活動がこの一週間まるで無かったというのも一つの理由だろう。美都に関して言えば、この不可思議な共同生活を始めて何の変哲もない日常を送っている。つまりまだ守護者として覚醒していないのだ。
洗顔後、タオルで顔を拭う。そして自分の姿が映る鏡の中の右手に目を向けた。指輪は相変わらず右手の中指に収まったまま、何の変化も示さない。
(! ……そうだ)
思い出したように今度は直に指輪を見つめた。
さすがにこのまま学校へは行けない。過度な装飾品は禁止されている。どうしたものかと考えたとき、ポーチの中に入っている絆創膏の存在を思い出した。一時的にはなるが何もしないよりはましだろう。
戸棚に入れておいたポーチから絆創膏を取出し、指輪の上に貼る。少し浮くがまあ仕方がない。それを確認し髪を整えて急いで洗面所を出た。
リビングに戻ると既に四季は朝食を終えたようだった。ダイニングテーブルには一人分の食事の用意がされている。
「早いね。もう食べ終わったの?」
「まあ、やることもなかったし」
そう言いながら四季は食べ終えた自分の食器を洗っている。自分で使用した分は自分で洗うのが決まりだ。
美都は席について手を合わせる。
「いただきます」
今日の食事当番は四季だ。作ってもらった料理をありがたくいただく。
彼は料理が得意なようで当番の日はいつも違うメニューが食卓に並ぶ。白米と味噌汁、それに卵焼き。一般的な日本の朝ごはんだ。ゆっくりと噛みしめながら食べ進めていると一通り片づけを終えた四季は一旦キッチンを後にして部屋に戻った。
(すごいなぁ……)
朝からこんなにしっかりとした食事を作れることにただただ感心してしまう。自身が朝に強い方ではないので、てきぱきとした動きを取る四季に対して尊敬の念を抱く。
リビングに置いてあるテレビから桜の開花情報が流れてきた。
(新学期か……)
中学校生活最後の1年だ。名実ともに新しい生活が始まる。
3年生という今後の人生に関わってくる大切な年だ。初夏には部活動も引退し、本格的に受験勉強が始まる。まだ実感はないが徐々に学年の空気もそうなってくるのだろう。いまいち将来やりたいことが定まっていない美都にとって、『受験生』という肩書はまだ曖昧だ。だがそうも言っていられない。クラスが決まったら近いうちに進路希望調査が行われることになっている。美都は浅く溜め息を吐いた。
考え事をしていたため食事の箸を留めていたところ、扉の開く音がしてハッと我に還る。音の方へ顔を向けると通学用の鞄を持って四季が歩いてきた。
「じゃあ先行くから」
「え、あ、うん」
登校時間には少し早い時間だとは思ったが恐らく気を遣ってくれたのだろう。
親戚、という形にはなっているが一緒に行くわけではない。それにまだ周囲の人間には何も説明していないのだ。休み明けに急に一緒にいたら変に思われるだろう。
昨日のうちに関係性の共通認識は済ませてある。弥生の言うように、親戚縁者とした方が後々煩わしさが少なくなることは明白だった。互いにそれだけは絶対として、もし周囲に触れられるようなことがあればそう話すと決めた。
ただ、懸念点が無いわけでない。むしろその説明で納得してくれるのか、と思う人物が身近にいる。この生活に関してもどう説明しようかと会っていたこの1週間ずっと考えていたが結局言えずじまいだった。後ろめたさはあるがいつまでも黙っているわけにはいかない。というよりも彼女は鼻が利く。現時点で既に異変に気付いているかもしれない。
とりあえずこのことは会った際に何とかしようと半ば中途半端に考えることを放棄すると、美都は最後の一口を反芻した後、ゆっくりと飲み込んだ。
◇
(というかこの時点でばれるよね)
そう思ったのは、学校に向かって歩いている途中だった。
常盤家とは線路を挟んでほぼ真逆に位置するこのマンションからはそもそも通学路が違う。今まで同じ方面で帰っていた彼女と会うはずがないのだ。
遭遇するとしたら間もなく至る学校の外周あたりだろうか。そんなことを考えていたちょうどその時。
「美都!」
角を曲がった瞬間、聞きなれた声が響いてきた。先程まで考えていた彼女だ。
「おはよう凛」
前方から駆け足で美都の元へやってきたのは彼女の友人の夕月凛だ。
新学期の晴れやかさとは打って変わって、朝の挨拶もそっちのけで神妙な面持ちのまま美都に問い詰める。
「聞いてない……どういうこと?」
「ご、ごめん。落ち着いたら話そうかなって……」
「落ち着いたらって……いつからこうなの?」
「えっと、一週間くらい前、かな」
「一週間って……じゃあ前会ったときはもう引っ越してたってこと?」
「う、うん……」
矢継ぎ早に美都への質問が繰り出される。その気迫に圧されつつ、美都は考えるように応えていった。
凛の表情はあまり晴れやかなものではない。何分、前回会った時には既に状況が変わっていたことを知らされていなかったからだ。
事態を反芻するように少し黙りこんだ後、朝の喧騒の中かき消されそうな声で呟いた。
「……心配したのよ」
「ごめん……とりあえず今日終わったら簡単に話すから」
とは言ったもののどこまで伝えていいものか。
凛は小学校からずっと一緒に行動している友人だ。冬にやってきた転校生の存在をすぐに親戚だと受け入れてくれるのだろうか。
しかし、今日終わったらと言ってしまった手前、何かしら説明しなければならない。それまでに彼女が納得する説明を考えておこうと思い、ひとまず凛を促した。
「ほら、とりあえず行こっか」
「……えぇ」
道の往来で立ち止まったまま話をしていても埒が明かない。それに今日から新学期だ。クラス替えもある。だからこそ彼女がピリピリしているのかもしれないが。
「クラス替え、どうなるかな」
「一緒のクラスになれたらいいんだけど……」
「7分の1だもんね」
「なんでうちの学校だけこんなに生徒数が多いのかしら」
「確かにねぇ……」
学校の外周を歩きながらクラス替えについてのことを話す。
美都たちが通う第一中学はこの少子化の時代には珍しくクラス数が多い。公立ではあるが周辺に私立の大学附属の学校があるからなのか人口が密集している。1学年7クラスあるため3年間同じ組にならない友人も多くいる。それどころか複数の小学校から編成されているため顔と名前が一致しないことも少なくない。凛とは運よく2年生で同じクラスになれたものの、今年度はどうなるかまさに神のみぞ知ると言ったところだ。何よりも美都が第一の凛にとっては気が気でないらしい。
「でもさ、新しい友達作るチャンスじゃない」
「わたしは美都がいればいいもの」
「凛……」
そうこう言っている間に、だんだんと生徒たちの賑やかな話し声が大きくなりあっという間に校門にたどり着いた。
校舎に向かって歩いていると更に周囲は騒がしくなる。既にクラス発表を見た生徒たちが興奮気味に話をしているからだろう。
「あ、美都ー! 凛ー!」
前方から春香の声が聞こえてきた。彼女も小学校からの付き合いだ。互いのことを良く知っている。いつも通り溌剌として耳馴染みがある声だ。
「おはよう春香」
「おはよ! クラス出てるよ」
既に見てきたであろう春香が笑みを浮かべながら二人に話しかける。
毎年新しいクラスは校舎の入り口、靴箱の手前に張り出されることになっている。だからこそこの喧騒なのだろう。興奮する者、落胆する者、反応は様々だ。
まるで合格発表のような賑わいも3年目になれば慣れたもので、それに則るかのように人の垣根の後方からクラス発表の紙を見る。
「えーと……」
1組から順番に自分の名前を探す。7クラスもあるとそれだけで時間は架かるがその時間もなんだか楽しいものだ。
「あっ……」
同じく隣で見ていた凛が声を発した。その視線を追うように用紙を確認する。
「凛は4組だね」
「そうみたい……」
「やっぱり今年は離れちゃったかー」
そう断言できるのは自分の名前がまだ見つけられていないからである。『月代』の前に『夕月』が見つかってしまえば同じクラスはありえない。肩を落とす凛の横で美都は再び自分の名前を探し始めた。
5組、6組と続いて見ていくがまだ自分の名前は無い。ということは見落としが無い限りは。
「あった。7組だ」
「というわけで1年よろしく、美都」
「あ、春香一緒? よかったー、よろしくね」
ひとまず自分のクラスを確認することが出来て安心した。
他に誰がいるのか遡って見ていくと、たった今声を架けてくれた春香の名前もある。女子ばかり気にしていたが、男子も同じ数だけいるのだ。下から見ていくと馴染みのある名前もちらほら見かけた。
「和真も一緒か」
「美都とはもはや腐れ縁だよね」
「まあ幼馴染だしね」
春香の返しに苦笑して応える。彼女が言うのは中原和真のことだ。
円佳と和真の母親の仲が良く幼少期からよくよく見知った仲だ。何の因果か、これで中学3年間ずっと同じ組ということになる。知り合いがいてくれると、やはり少しだけ安心するものだ。
つい和真のところで目を留めてしまったが、まだ男子は半分いる。そのまま確認を再開すると、ある名前でまた目を留めた。
(あっ……!)
その人物の名は、向陽四季。まさしく先程まで考えを巡らせていた人物だ。
(同じクラスだ……)
ということは家でも学校でもそれなりの距離で顔を合わせることになる。そう言えばどういう距離感で話せば良いか聞いていなかった。
恐らく四季の方が先に着いているので同じクラスだということは把握しているはずだろう。とりあえず今日は彼の出方を窺ってみようと考えた。
「美都?」
そんなことを考えていたら呆けていたように見えたのか、心配した凛から声がかかった。
ハッとして彼女に応える。
「あ、ううん、なんでもない。凛のクラスはどう?」
「……知り合いは、……ちらほらいるけど……」
明らかに彼女の声は暗い。その原因はわかる。それは美都だけでなく春香も察したようで、宥めるように凛に声をかけた。
「こればっかりはしょうがないって、凛」
「…………」
「そんな恨みがましそうに私を見られても」
「わかってる、けど……」
「ほらほら。とりあえず中入ろ」
春香が半ば強引に凛の背中を押す。一方の凛は理解はしているが納得はできていないというような口調だ。彼女にとって美都と同じクラスである春香がうらやましいのだろう。3年生ともなれば、修学旅行という行事がある。またその時期が来たら話題に出る事は必至だ。
ひとまずクラスが分かったところで、まだ賑わっている周りを横目に靴箱へ向かった。美都と春香は同じクラスなので同じブロックになる。凛は一つ先のブロックだ。上履きに履き替えながら美都が思い出したように春香に訊ねる。
「そう言えば春香、この間は無事帰れた?」
「この間? ああ、春休みの? うん、なんともなかったよ」
「そっか……。ならよかった」
初めて宿り魔に遭遇したときのことだ。その時は何が起こったのか解らず、ただ動揺したまま春香を見送った。
「あのとき美都の方が蒼い顔してたから逆に心配だったんだよ」
「そ、そうだったっけ?」
「そうだよ。なんかお化けでも見た後みたいな顔してたよ」
あながち間違ってはいない。到底この世のモノとは思えないものを間近で見たのだ。説明を訊くまではまるで夢のような出来事だと思っていた。
春香には宿り魔に遭遇したときの記憶が無いようだ。意識的に忘れたのか、はたまた本当に覚えていないのかはわからない。どちらにせよあんな得体の知れないもの、覚えておかない方が良い。
そうこうしている内に再び凛と合流した。
「何の話? お化けって?」
「ん? 春休みにね、たまたま美都と会ったときの話ー」
「それがどうしてお化けなの?」
二人の会話を耳に流しながら、美都は再び考えを巡らせる。
この間春香が狙われたのには何か意味があるのだろうか。偶然なのか、もしくは意図があったのか。そもそも宿り魔はどこからどういうふうに出現するのだろう。守護者はスポットが現れれば気づくものなのだろうか。散々、弥生と四季に聞いたもののまだ不思議なことは山ほどある。うーんと頭を悩ませているとおもむろに春香が美都の名を呼んだ。
「おーい美都?」
「え? あ、ごめん。なに?」
「いや私はいいけど、凛はここだから」
靴箱から4組の教室まではあっという間で、美都が唸っている間にすぐ到着してしまった。
二人の会話をよそに、一人集中していた美都を懸念するように凛が眉間にしわを寄せる。
「美都、今日はずっと上の空ね」
「え? あー……新学期だから浮ついてるのかも」
「……本当に?」
(す、鋭い……)
凛は美都のこととなると途端に鋭くなる。上の空であることは否定はできない。考えなければいけないことが山積しているため、注意力も散漫になっている。
詳細は何も話していないもののこの短時間で異変に気付くのはさすがと言わざるを得ない。ただ、現状詳しく説明が出来ないことも確かだ。それに守護者のことは周りに言うべきではない。そう自分の中で考えを落とし、凛には誤魔化すように伝えた。
「本当だって。それじゃあまた帰りにね」
「えぇ……」
少し不服そうな表情を浮かべながら、美都に応答する。
春香とともに廊下の最奥にある教室を目指しながら再び歩き出すと横でやり取りを見ていた彼女が口を挟んだ。
「まるで倦怠期のカップルみたい」
言い得て妙だとは思うが当事者としてどういう反応を示せば良いか苦笑いを浮かべたところ、目的地付近から春香の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
美都もつられて声が響く方を向くと、発信源は彼女と同じ部活の生徒のようだった。
隣で歩いていた春香が彼女の元へ駆け寄る。
「あやのー! ようやく一緒のクラスになれたね!」
「ねー! よかった!」
よく春香と行動をともにしている少女だ。小学校は一緒ではなかったので中学からの友人なのだろう。嬉々として互いの手を合わせており、その様子を半歩後ろから微笑ましく見守る。
あやのと呼ばれる少女が美都の存在に気づき向きを変える。
「あ! 月代ちゃんでしょ? 私、寺崎あやの。名簿が前後なの! よろしくね」
「そうなんだ。こちらこそよろしく、あやのちゃん」
「あやのでいいよ。私も美都って呼んでいい?」
「もちろん!」
あっという間に距離が縮まるのは、春香と同じく親しみやすさが滲み出ているからだろう。類は友を呼ぶとはまさにこのことだ。加えて名簿が前後であるなら、この1年互いに助け合う機会も多くなるはずだ。本人は何とも思っていないだろうが橋渡しとなってくれた春香を拝みたくなる。
あやのを加えた美都たち3人はしばらく廊下で立ち話を始めた。知り合いがどれほどいるか、担任は誰になるか、学校行事はどうなるか、など新学期らしい内容だ。
ふと、あやのが思い出したように人差し指を立てた。
「あ! そう言えばあの子も同じクラスだよ」
「あの子?」
「ほらー、冬に転校してきた子。ひとつ上の」
そこまで聞いて、該当する人物の顔が頭に浮かんだ。あやのが言っているのは四季のことだろう。2つのキーワードに当てはまるのは彼だけだ。特に後ろめたいことは無いはずだがなんだかその話題に少しだけ敏感になる。
「あー……! えーっと……向陽くん、だっけ?」
「そうそう! 窓側の一番後ろに座ってる子」
ようやく春香も思い出したように四季の名前を呟く。あやのが四季の座っている位置を意図も無く教えてくれたおかげで教室に入らずとも彼の場所が把握できた。この喧騒の中座っているということは、特にまだクラスに馴染みのある顔がいなかったということだろう。もっとも以前話をしたときに自分が浮いていることは自覚しているようであったが、新学期初日である本日もまだそれは継続しているようだ。
ひとつ上、というだけで周りが敬遠するのはなんとなくわかる。自分たちよりも1年早くに生まれているため実質先輩なのだ。関わり方に戸惑ってしまうのだろう。
「やっぱり1つ上なだけあって落ち着いてるよね。大人って感じ」
あやのの呟きに首を傾げた。単純に疑問を覚えたからだ。
四季は話をしてみると意外ととっつきやすく、気さくに笑う。外見は確かに大人びているものの自分たちと大差はない。そのことを思い出して咄嗟に口から言葉が出る。
「そんなに私たちと変わらないと思うよ。話もしやすい、し……」
春香とあやのは美都の返答を聞いて驚いたように彼女を見た。
(……あれ?)
その瞬間今度は自分に対して疑問を抱いた。なぜ今それを言ったのか。
彼女らが驚くのも無理はない。なぜなら接点が無いと思っているからだ。それを、ひと時でも話をしたことがあるという新情報を得たのだ。
「美都……いつの間にあの子と話してたの?」
実に妥当な反応だ。昨年度は違うクラスだったから話す機会も無い。それに周りから孤立していると思われていたのだ。驚きもするだろう。
「あー……えーっと……まあ、いろいろと……」
「何その反応怪しい」
「えー! なになにー!?」
はぐらかしてみたものの上手くいかず二人の突っ込みを総じて受ける。
いずれ知れるだろうとは思っていたがこんなに早くつつかれることになるとは。とは言え自業自得なので、二人の追及から目を逸らし苦笑いを浮かべる。その時、ちょうどよく予鈴が校舎中に鳴り響いた。
「あ! ほらほら、席に着かなきゃ」
「もー! 後で詳しく訊くからね」
半ば強引に話を遮ると春香が不満そうに口にした。二人の背中を押しながら7組の教室に入る。これから1年毎日通う教室だ。
美都たちと同じく、予鈴を聞いて慌ただしくクラスメイトが席に着く姿が窺えた。新しい友人らと談笑していたのだろう。だからこそ座っている生徒はより目立った。
窓際、春の日差しがその黒髪を照らす。肘をつきながら、四季は窓から校庭を眺めていた。
彼を確認するとあやのに促されて自身の席へ向かった。すると馴染みのある顔がすぐ隣にやってきた。
「よぅ、腐れ縁」
喧騒の中席に着くや否や、隣の席の中原和真が美都に声をかける。
「和真とはまあ……そんな気がしてたよ」
「そんな嬉しそうな顔すんなよ」
和真とは突き詰めて言えば保育園の頃からの仲だ。中原家と常盤家が隣同士、加えて円佳と彼の母である多加江は幼馴染なので必然的に共に行動することが多かった。
中学3年間同じクラスになったのは和真だけだ。地毛を茶色に染め制服を着崩している彼は、一見派手そうに見えて実のところ頭がよく切れる。周囲はその雰囲気から牽制しがちだが美都はこれでもかというくらい一緒にいたので彼の外見はさほど気にしていない。
和真の茶化すような返答に苦笑しているとそのまま彼が話を続ける。
「なあ。お前引っ越したんだって?」
「! もうその情報いってるの?」
「お前なー、あのおふくろだぞ。知らないわけないだろ」
「さすがだね多加江おばさん……」
中原家は男兄弟のため、女子成分が欲しかった多加江としては美都を娘のように可愛がっていた。常盤家にいた頃は頻繁に顔を合わせていたため不思議に思ったのだろう。さすがに情報を仕入れるのが早いと変な所に感心してしまう。多加江には良くしてもらった手前、何も言わずに引っ越してしまったことが心残りだった。
「親戚のとこなんだろ? これからずっとか?」
「まあ一応は……」
「詳しくは聞かねぇけどたまに戻ってきてくれよ。でないと俺に危害が及ぶ」
和真の話し方から察するに、円佳の方にも新居は親戚の家だという伝え方になっているようだ。
多加江は円佳とはタイプがまるで違い、年齢を重ねても少女のような雰囲気を併せ持ち、なにより可愛いものが好きだ。どちらかと言えば男所帯よりも女子で集まる事が好きなようで、度々常盤家でお茶を飲んでいる姿を見かけていた。女子成分が一人欠けたことによる多加江の落胆ぶりが目に浮かぶ。息子である和真とは親子と言うよりも姉弟のような関係であったため、八つ当たりのように彼に小言が行くのだそうだ。
「まあ……ぼちぼちね」
「頼むぜ」
和真と多加江には申し訳ないと思いつつ、しばらくは帰らないと決めている。そのことは口に出さず、濁すように返答した。
ちょうど本鈴が鳴り、周囲の喧騒も収まっていくなか教室の前方扉が勢いよく開かれた。美都たちの学校はクラス発表と同時に担任は発表されない。だからこの瞬間まで担任が誰かはわからないのだ。
扉から入ってきたのは長い髪を後ろで一つにまとめた女性教諭だった。
(羽鳥先生だ……!)
女性教諭は教卓に着くとすぐ生徒たちを見渡し挨拶を始めた。
「進級おめでとう。1年間この7組を担当する羽鳥です。よろしくね」
彼女の名前は羽鳥純。担当科目は国語だ。
はきはきとしていてどんな相手にも分け隔てなく接するため、生徒からも保護者からも評判が良い。40歳すぎとは思えない程の行動力がありどの層からの信頼も厚く、美都も好きな教師のひとりだ。嬉しくて顔が綻ぶ。
「さて、3年生と言えば受験があるね。この1年でこれからどういうところに向かっていきたいか、謂わば岐路の年でもあります。1週間後には三者面談を行うので、それまでにあなたたちの考えを一旦まとめてみてください。もちろん相談にのるからね」
受験という単語を聞いて一気に現実に戻された。加えて三者面談というワードまで飛び出している。2年生まではなかったものが次々と出てきて頭を抱える。
(三者面談……どうしよう)
円佳には迷惑をかけたくない、と思って連絡を絶つこと早1週間。既に打ち砕かれそうな決意に動揺する。保護者であることに変わりないと円佳は言ってくれたものの、やはり気が引ける。
彼女もまた仕事をしている身であり、自分のために時間を割いてもらうことは申し訳ない。だが隠していてもおそらく多加江から情報は伝わるだろう。今後のことを思うとどこかで妥協点を探すべきなのかもしれない。
一旦この問題は持ち帰ろうと考えていると羽鳥が今日の流れの説明を始めていた。
「今から簡単な自己紹介をしてもらって、時間になったら体育館へ移動。始業式が終わったら各委員を決めて、それが終わったら今日は解散です。それじゃあ名簿順で男子から」
無駄のない説明でさくさくと羽鳥が段取りを進める。
指名された生徒が立ち上がり、名前と部活動、各自の好きな物等を話し始め、最後に一言で締めると言った流れだ。
7組の生徒数は男子17名、女子18名の合計35名となる。1人1分弱にしても単純計算で30分程度はかかる。
始業式にはまだ1時間あるのでそれなりの余裕はあるが、茶々を入れ始めると伸びていくだろう。特に男子生徒はそういった傾向にある。早くも2番目の生徒の自己紹介で1分以上の時間を使った。
それでもことさら順調に自己紹介は進んでいった。初めて同じクラスになる生徒、小学校の同級生だった者、顔ぶれは様々だ。
特別親しい男子と言えば和真くらいなので、特に取り留めのない自己紹介を関心深く聞いていたところ、遂に1列目の最後方まで差し掛かった。
その生徒が立ち上がる瞬間、教室内の空気が一瞬変化する。
それまでは和やかな雰囲気で進んでいたが、彼の順番が回ってきた途端、まるで珍しいものを見るかのような目に変わり、興味の対象が移ったのが解った。しかし彼はそんなことに動じることなく、淡々と自己紹介を始める。
「向陽四季です。部活には入っていません。気兼ねなく話しかけてください」
美都も左斜め後ろに顔を向け、和真の頭越しにそれを聞いていた。
話している本人よりもなぜか緊張する。
その一言を聞いて、静観していた羽鳥が口を挟んだ。
「向陽は冬に転校してきたんだっけか」
「はいそうです」
「なるほどな。うちの学校は全員何かしら部活に入ることになってるんだ。3年生だからすぐ引退にはなるが……どこか希望の部活はあるか?」
羽鳥からの問いに少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「しいて言うなら……サッカーか陸上ですかね」
「サッカーは経験者?」
「はい、やってました」
和真の頭が動いた。サッカーと聞いて反応したのだろう。
それにしてもサッカーをやっていたなんて知らなかった。否、あまりお互いの情報を話していないため知らないのも無理はない。だが一度だけ見た、あの守護者のときの動作を見れば身体能力は歴然だった。
「了解。とりあえず両方見学に行って決めればいい。段取りつけとくよ」
「ありがとうございます」
「他になにかあるか? ただでさえ転校してそんなに経ってないんだ。何かしらとっかかりがあったほうが皆も話しかけやすい」
羽鳥の提案に、クラス一同内心頷いたに違いない。四季の次の言葉を待つように、クラス中は興味津々だ。また少し四季は何かを考えるように黙り込む。
先程あやのの言葉を否定したが、その立ち姿はやはりどこか大人びて見える。成長期の1歳とはこんなに違うのかと思う程には。
ただ、外見はそうであっても彼は気さくな人間であるということを美都は知っている。出来れば他の人にもそれを知ってもらいたい。だからこそ羽鳥の提案に賛辞を送りたい。
ふいに彼の視線が動いた。その赤茶色の瞳は何かを探すようにゆっくりと教室内へ向けられる。
その眼が留めたのは、美都だった。
初めは思い過ごしかと思ったが、瞬きをしたその数秒視線を交わす。
一瞬だけ空気が止まったような気がした。しかし次の四季の言葉でその空気は真逆のものとなる。
「月代さんとは遠い親戚です」
ざわっと教室がどよめいた。一気に美都へ視線が集中する。
いきなり注目の的となった美都は自分の名字が彼の口から出た瞬間、思考が一時停止されたかのように動きを止めた。
ざわついたまま四季は何事も無かったかのようにしれっと着席する。
後ろの席のあやのがどういうことかと美都の肩を揺らしている。同じく横で聞いていた和真も意外そうな顔をして振り向いて美都を見た。
一瞬遅れて知覚する。
(い…………)
次の生徒の自己紹介のために騒然とした教室を羽鳥が宥めていた。
それを意識の端で感じる。しかし美都はそんなことどうでもよかった。
(────いま言うの!?)
確かに学校での距離感を決めるのを忘れていた。だが予想だにしない、動揺に次ぐ衝撃的発言だ。
まるで爆弾を投下されたかのよう。
その後の生徒の自己紹介など耳に入って来なかったことは言うまでもない。まして自分の自己紹介など、ちゃんと文章が成り立っていたのかさえ記憶に残らなかった。
4月だというのに肌寒い日が続く。布団をしっかりと被らないと風邪を引きそうな程寒い。冷え切った空気が、頬を刺した。
寝ぼけ眼で枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし画面を確認する。新しい月に替わり、早くも一週間が過ぎようとしていた。
日付は4月7日。今日から新学期が始まるのだ。
◇
あっという間に春休みが終わった。
だが部活動で毎日のように学校へ通っていたおかげか、制服を着るのは特段久しぶりでは無い。着なれたセーラー服を身に纏い姿見で確認する。この制服を着るのもあと1年ということだ。そう思うとなんだか感慨深い。
鏡を見ながら胸元のリボンを整えて自室を後にした。扉を閉めて真直ぐに歩くとすぐにリビングダイニングになる。そこには既に同居人である向陽四季の姿があった。
「おはよう」
「ああ、おはよ」
朝の挨拶を交わし、美都は洗面所へ向かう。
この生活を始めて1週間になる。初めての異性との共同生活に戸惑いながらなんとか日々過ごしてきた。お互いにまだ手探りといった状況で、広いリビングで同じ時間を過ごしたことはほとんどない。過度な干渉は避けているというような感じだ。
というのも、当初言われていた守護者としての活動がこの一週間まるで無かったというのも一つの理由だろう。美都に関して言えば、この不可思議な共同生活を始めて何の変哲もない日常を送っている。つまりまだ守護者として覚醒していないのだ。
洗顔後、タオルで顔を拭う。そして自分の姿が映る鏡の中の右手に目を向けた。指輪は相変わらず右手の中指に収まったまま、何の変化も示さない。
(! ……そうだ)
思い出したように今度は直に指輪を見つめた。
さすがにこのまま学校へは行けない。過度な装飾品は禁止されている。どうしたものかと考えたとき、ポーチの中に入っている絆創膏の存在を思い出した。一時的にはなるが何もしないよりはましだろう。
戸棚に入れておいたポーチから絆創膏を取出し、指輪の上に貼る。少し浮くがまあ仕方がない。それを確認し髪を整えて急いで洗面所を出た。
リビングに戻ると既に四季は朝食を終えたようだった。ダイニングテーブルには一人分の食事の用意がされている。
「早いね。もう食べ終わったの?」
「まあ、やることもなかったし」
そう言いながら四季は食べ終えた自分の食器を洗っている。自分で使用した分は自分で洗うのが決まりだ。
美都は席について手を合わせる。
「いただきます」
今日の食事当番は四季だ。作ってもらった料理をありがたくいただく。
彼は料理が得意なようで当番の日はいつも違うメニューが食卓に並ぶ。白米と味噌汁、それに卵焼き。一般的な日本の朝ごはんだ。ゆっくりと噛みしめながら食べ進めていると一通り片づけを終えた四季は一旦キッチンを後にして部屋に戻った。
(すごいなぁ……)
朝からこんなにしっかりとした食事を作れることにただただ感心してしまう。自身が朝に強い方ではないので、てきぱきとした動きを取る四季に対して尊敬の念を抱く。
リビングに置いてあるテレビから桜の開花情報が流れてきた。
(新学期か……)
中学校生活最後の1年だ。名実ともに新しい生活が始まる。
3年生という今後の人生に関わってくる大切な年だ。初夏には部活動も引退し、本格的に受験勉強が始まる。まだ実感はないが徐々に学年の空気もそうなってくるのだろう。いまいち将来やりたいことが定まっていない美都にとって、『受験生』という肩書はまだ曖昧だ。だがそうも言っていられない。クラスが決まったら近いうちに進路希望調査が行われることになっている。美都は浅く溜め息を吐いた。
考え事をしていたため食事の箸を留めていたところ、扉の開く音がしてハッと我に還る。音の方へ顔を向けると通学用の鞄を持って四季が歩いてきた。
「じゃあ先行くから」
「え、あ、うん」
登校時間には少し早い時間だとは思ったが恐らく気を遣ってくれたのだろう。
親戚、という形にはなっているが一緒に行くわけではない。それにまだ周囲の人間には何も説明していないのだ。休み明けに急に一緒にいたら変に思われるだろう。
昨日のうちに関係性の共通認識は済ませてある。弥生の言うように、親戚縁者とした方が後々煩わしさが少なくなることは明白だった。互いにそれだけは絶対として、もし周囲に触れられるようなことがあればそう話すと決めた。
ただ、懸念点が無いわけでない。むしろその説明で納得してくれるのか、と思う人物が身近にいる。この生活に関してもどう説明しようかと会っていたこの1週間ずっと考えていたが結局言えずじまいだった。後ろめたさはあるがいつまでも黙っているわけにはいかない。というよりも彼女は鼻が利く。現時点で既に異変に気付いているかもしれない。
とりあえずこのことは会った際に何とかしようと半ば中途半端に考えることを放棄すると、美都は最後の一口を反芻した後、ゆっくりと飲み込んだ。
◇
(というかこの時点でばれるよね)
そう思ったのは、学校に向かって歩いている途中だった。
常盤家とは線路を挟んでほぼ真逆に位置するこのマンションからはそもそも通学路が違う。今まで同じ方面で帰っていた彼女と会うはずがないのだ。
遭遇するとしたら間もなく至る学校の外周あたりだろうか。そんなことを考えていたちょうどその時。
「美都!」
角を曲がった瞬間、聞きなれた声が響いてきた。先程まで考えていた彼女だ。
「おはよう凛」
前方から駆け足で美都の元へやってきたのは彼女の友人の夕月凛だ。
新学期の晴れやかさとは打って変わって、朝の挨拶もそっちのけで神妙な面持ちのまま美都に問い詰める。
「聞いてない……どういうこと?」
「ご、ごめん。落ち着いたら話そうかなって……」
「落ち着いたらって……いつからこうなの?」
「えっと、一週間くらい前、かな」
「一週間って……じゃあ前会ったときはもう引っ越してたってこと?」
「う、うん……」
矢継ぎ早に美都への質問が繰り出される。その気迫に圧されつつ、美都は考えるように応えていった。
凛の表情はあまり晴れやかなものではない。何分、前回会った時には既に状況が変わっていたことを知らされていなかったからだ。
事態を反芻するように少し黙りこんだ後、朝の喧騒の中かき消されそうな声で呟いた。
「……心配したのよ」
「ごめん……とりあえず今日終わったら簡単に話すから」
とは言ったもののどこまで伝えていいものか。
凛は小学校からずっと一緒に行動している友人だ。冬にやってきた転校生の存在をすぐに親戚だと受け入れてくれるのだろうか。
しかし、今日終わったらと言ってしまった手前、何かしら説明しなければならない。それまでに彼女が納得する説明を考えておこうと思い、ひとまず凛を促した。
「ほら、とりあえず行こっか」
「……えぇ」
道の往来で立ち止まったまま話をしていても埒が明かない。それに今日から新学期だ。クラス替えもある。だからこそ彼女がピリピリしているのかもしれないが。
「クラス替え、どうなるかな」
「一緒のクラスになれたらいいんだけど……」
「7分の1だもんね」
「なんでうちの学校だけこんなに生徒数が多いのかしら」
「確かにねぇ……」
学校の外周を歩きながらクラス替えについてのことを話す。
美都たちが通う第一中学はこの少子化の時代には珍しくクラス数が多い。公立ではあるが周辺に私立の大学附属の学校があるからなのか人口が密集している。1学年7クラスあるため3年間同じ組にならない友人も多くいる。それどころか複数の小学校から編成されているため顔と名前が一致しないことも少なくない。凛とは運よく2年生で同じクラスになれたものの、今年度はどうなるかまさに神のみぞ知ると言ったところだ。何よりも美都が第一の凛にとっては気が気でないらしい。
「でもさ、新しい友達作るチャンスじゃない」
「わたしは美都がいればいいもの」
「凛……」
そうこう言っている間に、だんだんと生徒たちの賑やかな話し声が大きくなりあっという間に校門にたどり着いた。
校舎に向かって歩いていると更に周囲は騒がしくなる。既にクラス発表を見た生徒たちが興奮気味に話をしているからだろう。
「あ、美都ー! 凛ー!」
前方から春香の声が聞こえてきた。彼女も小学校からの付き合いだ。互いのことを良く知っている。いつも通り溌剌として耳馴染みがある声だ。
「おはよう春香」
「おはよ! クラス出てるよ」
既に見てきたであろう春香が笑みを浮かべながら二人に話しかける。
毎年新しいクラスは校舎の入り口、靴箱の手前に張り出されることになっている。だからこそこの喧騒なのだろう。興奮する者、落胆する者、反応は様々だ。
まるで合格発表のような賑わいも3年目になれば慣れたもので、それに則るかのように人の垣根の後方からクラス発表の紙を見る。
「えーと……」
1組から順番に自分の名前を探す。7クラスもあるとそれだけで時間は架かるがその時間もなんだか楽しいものだ。
「あっ……」
同じく隣で見ていた凛が声を発した。その視線を追うように用紙を確認する。
「凛は4組だね」
「そうみたい……」
「やっぱり今年は離れちゃったかー」
そう断言できるのは自分の名前がまだ見つけられていないからである。『月代』の前に『夕月』が見つかってしまえば同じクラスはありえない。肩を落とす凛の横で美都は再び自分の名前を探し始めた。
5組、6組と続いて見ていくがまだ自分の名前は無い。ということは見落としが無い限りは。
「あった。7組だ」
「というわけで1年よろしく、美都」
「あ、春香一緒? よかったー、よろしくね」
ひとまず自分のクラスを確認することが出来て安心した。
他に誰がいるのか遡って見ていくと、たった今声を架けてくれた春香の名前もある。女子ばかり気にしていたが、男子も同じ数だけいるのだ。下から見ていくと馴染みのある名前もちらほら見かけた。
「和真も一緒か」
「美都とはもはや腐れ縁だよね」
「まあ幼馴染だしね」
春香の返しに苦笑して応える。彼女が言うのは中原和真のことだ。
円佳と和真の母親の仲が良く幼少期からよくよく見知った仲だ。何の因果か、これで中学3年間ずっと同じ組ということになる。知り合いがいてくれると、やはり少しだけ安心するものだ。
つい和真のところで目を留めてしまったが、まだ男子は半分いる。そのまま確認を再開すると、ある名前でまた目を留めた。
(あっ……!)
その人物の名は、向陽四季。まさしく先程まで考えを巡らせていた人物だ。
(同じクラスだ……)
ということは家でも学校でもそれなりの距離で顔を合わせることになる。そう言えばどういう距離感で話せば良いか聞いていなかった。
恐らく四季の方が先に着いているので同じクラスだということは把握しているはずだろう。とりあえず今日は彼の出方を窺ってみようと考えた。
「美都?」
そんなことを考えていたら呆けていたように見えたのか、心配した凛から声がかかった。
ハッとして彼女に応える。
「あ、ううん、なんでもない。凛のクラスはどう?」
「……知り合いは、……ちらほらいるけど……」
明らかに彼女の声は暗い。その原因はわかる。それは美都だけでなく春香も察したようで、宥めるように凛に声をかけた。
「こればっかりはしょうがないって、凛」
「…………」
「そんな恨みがましそうに私を見られても」
「わかってる、けど……」
「ほらほら。とりあえず中入ろ」
春香が半ば強引に凛の背中を押す。一方の凛は理解はしているが納得はできていないというような口調だ。彼女にとって美都と同じクラスである春香がうらやましいのだろう。3年生ともなれば、修学旅行という行事がある。またその時期が来たら話題に出る事は必至だ。
ひとまずクラスが分かったところで、まだ賑わっている周りを横目に靴箱へ向かった。美都と春香は同じクラスなので同じブロックになる。凛は一つ先のブロックだ。上履きに履き替えながら美都が思い出したように春香に訊ねる。
「そう言えば春香、この間は無事帰れた?」
「この間? ああ、春休みの? うん、なんともなかったよ」
「そっか……。ならよかった」
初めて宿り魔に遭遇したときのことだ。その時は何が起こったのか解らず、ただ動揺したまま春香を見送った。
「あのとき美都の方が蒼い顔してたから逆に心配だったんだよ」
「そ、そうだったっけ?」
「そうだよ。なんかお化けでも見た後みたいな顔してたよ」
あながち間違ってはいない。到底この世のモノとは思えないものを間近で見たのだ。説明を訊くまではまるで夢のような出来事だと思っていた。
春香には宿り魔に遭遇したときの記憶が無いようだ。意識的に忘れたのか、はたまた本当に覚えていないのかはわからない。どちらにせよあんな得体の知れないもの、覚えておかない方が良い。
そうこうしている内に再び凛と合流した。
「何の話? お化けって?」
「ん? 春休みにね、たまたま美都と会ったときの話ー」
「それがどうしてお化けなの?」
二人の会話を耳に流しながら、美都は再び考えを巡らせる。
この間春香が狙われたのには何か意味があるのだろうか。偶然なのか、もしくは意図があったのか。そもそも宿り魔はどこからどういうふうに出現するのだろう。守護者はスポットが現れれば気づくものなのだろうか。散々、弥生と四季に聞いたもののまだ不思議なことは山ほどある。うーんと頭を悩ませているとおもむろに春香が美都の名を呼んだ。
「おーい美都?」
「え? あ、ごめん。なに?」
「いや私はいいけど、凛はここだから」
靴箱から4組の教室まではあっという間で、美都が唸っている間にすぐ到着してしまった。
二人の会話をよそに、一人集中していた美都を懸念するように凛が眉間にしわを寄せる。
「美都、今日はずっと上の空ね」
「え? あー……新学期だから浮ついてるのかも」
「……本当に?」
(す、鋭い……)
凛は美都のこととなると途端に鋭くなる。上の空であることは否定はできない。考えなければいけないことが山積しているため、注意力も散漫になっている。
詳細は何も話していないもののこの短時間で異変に気付くのはさすがと言わざるを得ない。ただ、現状詳しく説明が出来ないことも確かだ。それに守護者のことは周りに言うべきではない。そう自分の中で考えを落とし、凛には誤魔化すように伝えた。
「本当だって。それじゃあまた帰りにね」
「えぇ……」
少し不服そうな表情を浮かべながら、美都に応答する。
春香とともに廊下の最奥にある教室を目指しながら再び歩き出すと横でやり取りを見ていた彼女が口を挟んだ。
「まるで倦怠期のカップルみたい」
言い得て妙だとは思うが当事者としてどういう反応を示せば良いか苦笑いを浮かべたところ、目的地付近から春香の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
美都もつられて声が響く方を向くと、発信源は彼女と同じ部活の生徒のようだった。
隣で歩いていた春香が彼女の元へ駆け寄る。
「あやのー! ようやく一緒のクラスになれたね!」
「ねー! よかった!」
よく春香と行動をともにしている少女だ。小学校は一緒ではなかったので中学からの友人なのだろう。嬉々として互いの手を合わせており、その様子を半歩後ろから微笑ましく見守る。
あやのと呼ばれる少女が美都の存在に気づき向きを変える。
「あ! 月代ちゃんでしょ? 私、寺崎あやの。名簿が前後なの! よろしくね」
「そうなんだ。こちらこそよろしく、あやのちゃん」
「あやのでいいよ。私も美都って呼んでいい?」
「もちろん!」
あっという間に距離が縮まるのは、春香と同じく親しみやすさが滲み出ているからだろう。類は友を呼ぶとはまさにこのことだ。加えて名簿が前後であるなら、この1年互いに助け合う機会も多くなるはずだ。本人は何とも思っていないだろうが橋渡しとなってくれた春香を拝みたくなる。
あやのを加えた美都たち3人はしばらく廊下で立ち話を始めた。知り合いがどれほどいるか、担任は誰になるか、学校行事はどうなるか、など新学期らしい内容だ。
ふと、あやのが思い出したように人差し指を立てた。
「あ! そう言えばあの子も同じクラスだよ」
「あの子?」
「ほらー、冬に転校してきた子。ひとつ上の」
そこまで聞いて、該当する人物の顔が頭に浮かんだ。あやのが言っているのは四季のことだろう。2つのキーワードに当てはまるのは彼だけだ。特に後ろめたいことは無いはずだがなんだかその話題に少しだけ敏感になる。
「あー……! えーっと……向陽くん、だっけ?」
「そうそう! 窓側の一番後ろに座ってる子」
ようやく春香も思い出したように四季の名前を呟く。あやのが四季の座っている位置を意図も無く教えてくれたおかげで教室に入らずとも彼の場所が把握できた。この喧騒の中座っているということは、特にまだクラスに馴染みのある顔がいなかったということだろう。もっとも以前話をしたときに自分が浮いていることは自覚しているようであったが、新学期初日である本日もまだそれは継続しているようだ。
ひとつ上、というだけで周りが敬遠するのはなんとなくわかる。自分たちよりも1年早くに生まれているため実質先輩なのだ。関わり方に戸惑ってしまうのだろう。
「やっぱり1つ上なだけあって落ち着いてるよね。大人って感じ」
あやのの呟きに首を傾げた。単純に疑問を覚えたからだ。
四季は話をしてみると意外ととっつきやすく、気さくに笑う。外見は確かに大人びているものの自分たちと大差はない。そのことを思い出して咄嗟に口から言葉が出る。
「そんなに私たちと変わらないと思うよ。話もしやすい、し……」
春香とあやのは美都の返答を聞いて驚いたように彼女を見た。
(……あれ?)
その瞬間今度は自分に対して疑問を抱いた。なぜ今それを言ったのか。
彼女らが驚くのも無理はない。なぜなら接点が無いと思っているからだ。それを、ひと時でも話をしたことがあるという新情報を得たのだ。
「美都……いつの間にあの子と話してたの?」
実に妥当な反応だ。昨年度は違うクラスだったから話す機会も無い。それに周りから孤立していると思われていたのだ。驚きもするだろう。
「あー……えーっと……まあ、いろいろと……」
「何その反応怪しい」
「えー! なになにー!?」
はぐらかしてみたものの上手くいかず二人の突っ込みを総じて受ける。
いずれ知れるだろうとは思っていたがこんなに早くつつかれることになるとは。とは言え自業自得なので、二人の追及から目を逸らし苦笑いを浮かべる。その時、ちょうどよく予鈴が校舎中に鳴り響いた。
「あ! ほらほら、席に着かなきゃ」
「もー! 後で詳しく訊くからね」
半ば強引に話を遮ると春香が不満そうに口にした。二人の背中を押しながら7組の教室に入る。これから1年毎日通う教室だ。
美都たちと同じく、予鈴を聞いて慌ただしくクラスメイトが席に着く姿が窺えた。新しい友人らと談笑していたのだろう。だからこそ座っている生徒はより目立った。
窓際、春の日差しがその黒髪を照らす。肘をつきながら、四季は窓から校庭を眺めていた。
彼を確認するとあやのに促されて自身の席へ向かった。すると馴染みのある顔がすぐ隣にやってきた。
「よぅ、腐れ縁」
喧騒の中席に着くや否や、隣の席の中原和真が美都に声をかける。
「和真とはまあ……そんな気がしてたよ」
「そんな嬉しそうな顔すんなよ」
和真とは突き詰めて言えば保育園の頃からの仲だ。中原家と常盤家が隣同士、加えて円佳と彼の母である多加江は幼馴染なので必然的に共に行動することが多かった。
中学3年間同じクラスになったのは和真だけだ。地毛を茶色に染め制服を着崩している彼は、一見派手そうに見えて実のところ頭がよく切れる。周囲はその雰囲気から牽制しがちだが美都はこれでもかというくらい一緒にいたので彼の外見はさほど気にしていない。
和真の茶化すような返答に苦笑しているとそのまま彼が話を続ける。
「なあ。お前引っ越したんだって?」
「! もうその情報いってるの?」
「お前なー、あのおふくろだぞ。知らないわけないだろ」
「さすがだね多加江おばさん……」
中原家は男兄弟のため、女子成分が欲しかった多加江としては美都を娘のように可愛がっていた。常盤家にいた頃は頻繁に顔を合わせていたため不思議に思ったのだろう。さすがに情報を仕入れるのが早いと変な所に感心してしまう。多加江には良くしてもらった手前、何も言わずに引っ越してしまったことが心残りだった。
「親戚のとこなんだろ? これからずっとか?」
「まあ一応は……」
「詳しくは聞かねぇけどたまに戻ってきてくれよ。でないと俺に危害が及ぶ」
和真の話し方から察するに、円佳の方にも新居は親戚の家だという伝え方になっているようだ。
多加江は円佳とはタイプがまるで違い、年齢を重ねても少女のような雰囲気を併せ持ち、なにより可愛いものが好きだ。どちらかと言えば男所帯よりも女子で集まる事が好きなようで、度々常盤家でお茶を飲んでいる姿を見かけていた。女子成分が一人欠けたことによる多加江の落胆ぶりが目に浮かぶ。息子である和真とは親子と言うよりも姉弟のような関係であったため、八つ当たりのように彼に小言が行くのだそうだ。
「まあ……ぼちぼちね」
「頼むぜ」
和真と多加江には申し訳ないと思いつつ、しばらくは帰らないと決めている。そのことは口に出さず、濁すように返答した。
ちょうど本鈴が鳴り、周囲の喧騒も収まっていくなか教室の前方扉が勢いよく開かれた。美都たちの学校はクラス発表と同時に担任は発表されない。だからこの瞬間まで担任が誰かはわからないのだ。
扉から入ってきたのは長い髪を後ろで一つにまとめた女性教諭だった。
(羽鳥先生だ……!)
女性教諭は教卓に着くとすぐ生徒たちを見渡し挨拶を始めた。
「進級おめでとう。1年間この7組を担当する羽鳥です。よろしくね」
彼女の名前は羽鳥純。担当科目は国語だ。
はきはきとしていてどんな相手にも分け隔てなく接するため、生徒からも保護者からも評判が良い。40歳すぎとは思えない程の行動力がありどの層からの信頼も厚く、美都も好きな教師のひとりだ。嬉しくて顔が綻ぶ。
「さて、3年生と言えば受験があるね。この1年でこれからどういうところに向かっていきたいか、謂わば岐路の年でもあります。1週間後には三者面談を行うので、それまでにあなたたちの考えを一旦まとめてみてください。もちろん相談にのるからね」
受験という単語を聞いて一気に現実に戻された。加えて三者面談というワードまで飛び出している。2年生まではなかったものが次々と出てきて頭を抱える。
(三者面談……どうしよう)
円佳には迷惑をかけたくない、と思って連絡を絶つこと早1週間。既に打ち砕かれそうな決意に動揺する。保護者であることに変わりないと円佳は言ってくれたものの、やはり気が引ける。
彼女もまた仕事をしている身であり、自分のために時間を割いてもらうことは申し訳ない。だが隠していてもおそらく多加江から情報は伝わるだろう。今後のことを思うとどこかで妥協点を探すべきなのかもしれない。
一旦この問題は持ち帰ろうと考えていると羽鳥が今日の流れの説明を始めていた。
「今から簡単な自己紹介をしてもらって、時間になったら体育館へ移動。始業式が終わったら各委員を決めて、それが終わったら今日は解散です。それじゃあ名簿順で男子から」
無駄のない説明でさくさくと羽鳥が段取りを進める。
指名された生徒が立ち上がり、名前と部活動、各自の好きな物等を話し始め、最後に一言で締めると言った流れだ。
7組の生徒数は男子17名、女子18名の合計35名となる。1人1分弱にしても単純計算で30分程度はかかる。
始業式にはまだ1時間あるのでそれなりの余裕はあるが、茶々を入れ始めると伸びていくだろう。特に男子生徒はそういった傾向にある。早くも2番目の生徒の自己紹介で1分以上の時間を使った。
それでもことさら順調に自己紹介は進んでいった。初めて同じクラスになる生徒、小学校の同級生だった者、顔ぶれは様々だ。
特別親しい男子と言えば和真くらいなので、特に取り留めのない自己紹介を関心深く聞いていたところ、遂に1列目の最後方まで差し掛かった。
その生徒が立ち上がる瞬間、教室内の空気が一瞬変化する。
それまでは和やかな雰囲気で進んでいたが、彼の順番が回ってきた途端、まるで珍しいものを見るかのような目に変わり、興味の対象が移ったのが解った。しかし彼はそんなことに動じることなく、淡々と自己紹介を始める。
「向陽四季です。部活には入っていません。気兼ねなく話しかけてください」
美都も左斜め後ろに顔を向け、和真の頭越しにそれを聞いていた。
話している本人よりもなぜか緊張する。
その一言を聞いて、静観していた羽鳥が口を挟んだ。
「向陽は冬に転校してきたんだっけか」
「はいそうです」
「なるほどな。うちの学校は全員何かしら部活に入ることになってるんだ。3年生だからすぐ引退にはなるが……どこか希望の部活はあるか?」
羽鳥からの問いに少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「しいて言うなら……サッカーか陸上ですかね」
「サッカーは経験者?」
「はい、やってました」
和真の頭が動いた。サッカーと聞いて反応したのだろう。
それにしてもサッカーをやっていたなんて知らなかった。否、あまりお互いの情報を話していないため知らないのも無理はない。だが一度だけ見た、あの守護者のときの動作を見れば身体能力は歴然だった。
「了解。とりあえず両方見学に行って決めればいい。段取りつけとくよ」
「ありがとうございます」
「他になにかあるか? ただでさえ転校してそんなに経ってないんだ。何かしらとっかかりがあったほうが皆も話しかけやすい」
羽鳥の提案に、クラス一同内心頷いたに違いない。四季の次の言葉を待つように、クラス中は興味津々だ。また少し四季は何かを考えるように黙り込む。
先程あやのの言葉を否定したが、その立ち姿はやはりどこか大人びて見える。成長期の1歳とはこんなに違うのかと思う程には。
ただ、外見はそうであっても彼は気さくな人間であるということを美都は知っている。出来れば他の人にもそれを知ってもらいたい。だからこそ羽鳥の提案に賛辞を送りたい。
ふいに彼の視線が動いた。その赤茶色の瞳は何かを探すようにゆっくりと教室内へ向けられる。
その眼が留めたのは、美都だった。
初めは思い過ごしかと思ったが、瞬きをしたその数秒視線を交わす。
一瞬だけ空気が止まったような気がした。しかし次の四季の言葉でその空気は真逆のものとなる。
「月代さんとは遠い親戚です」
ざわっと教室がどよめいた。一気に美都へ視線が集中する。
いきなり注目の的となった美都は自分の名字が彼の口から出た瞬間、思考が一時停止されたかのように動きを止めた。
ざわついたまま四季は何事も無かったかのようにしれっと着席する。
後ろの席のあやのがどういうことかと美都の肩を揺らしている。同じく横で聞いていた和真も意外そうな顔をして振り向いて美都を見た。
一瞬遅れて知覚する。
(い…………)
次の生徒の自己紹介のために騒然とした教室を羽鳥が宥めていた。
それを意識の端で感じる。しかし美都はそんなことどうでもよかった。
(────いま言うの!?)
確かに学校での距離感を決めるのを忘れていた。だが予想だにしない、動揺に次ぐ衝撃的発言だ。
まるで爆弾を投下されたかのよう。
その後の生徒の自己紹介など耳に入って来なかったことは言うまでもない。まして自分の自己紹介など、ちゃんと文章が成り立っていたのかさえ記憶に残らなかった。