めぐる鍵、守護するきみ-鍵を守護する者-

勇気の前に竦む足


(さてどうしたものか……)
職員室から出て教室へ向かう途中の廊下で立ち止まった。場所は中央階段の2階ホールあたりになる。部活する者や帰宅する者、それぞれ散っていく時間なので少しだけ校舎は静かになってきていた。
中央階段を下りれば、すぐに4組の教室付近になる。
未だに凛への説明を考えている美都は、彼女に会う前に一旦状況を整理しようと思ったのだ。
(たぶんもう知ってるよね……)
四季との関係のことだ。他クラスの生徒からもすれ違うたびに視線を感じていた。
凛のことだ。恐らくもう情報を入手しているに違いない。重要なのはそれを訊かれた際の説明だ。先程も思ったが、『遠縁』として通すには少し後ろめたさがある。だが四季と弥生と決めたことだ。そうした方が良いと同意したのも間違いない。
ただ果たして凛にも同じ説明で良いのだろうか。ずっと共に過ごしてきた一番の友人だ。その友人に嘘をつかなければならない。必要な嘘であったとしても気が引ける。だが、守護者のことを伏せるのだとしたら他に上手い説明が見当たらないのも事実だ。
美都は足元を見ながら浅く溜息を吐く。
ふとその瞬間、下に置いたままの目線の先に一枚の紙がひらりと舞い落ちてきた。
(……?)
気付いてその紙を拾い上げる。どうやら楽譜のようだ。
辺りを見回すと、南校舎へと向かう男性教諭の姿があった。恐らく彼だろう。落としたことに気づいていないのかそのまま歩を進める教師に、美都は小走りで駆け寄り後ろから声をかけた。
「あの、落としましたよ」
美都の声に反応するように、男性教諭は足を留めてそのまま振り返った。
(わぁ……)
その瞬間、彼に目を奪われる。振り向いたその教師は息を呑む程端麗な顔立ちをしていた。
そう言えば、とふと思い出した。去年赴任してきた音楽の教諭がまだ若く、女子生徒から絶大な人気があると聞いたのだ。美都の昨年のクラスは別の音楽教諭が担当していたためその教諭と接する機会が無かった。だから忘れていたのだ。
呼び止められて不思議そうに首を傾げる彼の表情を見て、ハッとして我に還る。
「あ、これ……!」
「え?」
先程拾った楽譜を差し出す。
男性教諭はやはり落としたことに気づいていなかったようで脇に抱えていた書類の束を確認すると美都からそれを受け取った。
「すみません、ありがとうございます。助かりました」
「いえ、全然! 気づいてよかったです」
広げた手を大袈裟に横に振る。
男性教諭は微笑むと会釈をして再び歩き出した。
美都も会釈を返し、しばらくその姿を見送る。前方から来る生徒が「たかしなせんせー!」と呼び、その教諭のもとへ駆け寄るのが見えた。
(たかしな……そうだ、高階先生だ。覚えた)
人間とは現金なものだとつくづく思う。これまで関心の無かったことでもひとたび関わることで何かと興味が湧いてくるものだ。特に今年度は音楽委員になったこともあり、もしかしたら彼が担当するかもしれないという可能性もあった。むしろそうであればいいなという願望に近いものもある。
「──いた! 美都!!」
いきなり背後から名前を呼ばれ、びくりと肩を竦める。振り向かずとも声の主はわかるが、名前を呼ばれた手前振り向かざるを得ない。
「り、凛……」
待つことに痺れを切らした凛が自分のことを探しに来たようだった。
昇ってきた階段から美都の元へ駆け寄る。
「用事終わった?」
「うん。今ちょうど終わって教室に戻ろうかなって思ってたところ」
突き詰めて言えば少しブランクはあるが敢えてそのことには触れなかった。触れたところでその空白の時間、何をしていたのかつつかれると思ったからだ。
わざわざ探しに来てくれた凛に、彼女が駆け上がってきた階段を再び降りるよう促す。
「遅くなってごめんね。長引いちゃって」
「ううん。ただあまりにも遅いから心配で……」
心配性の凛を気遣い、先に長引いてしまったことを詫びる。
実質羽鳥との話に入るまでの待ち時間が程々にあったため今さっきの熟考時間を含めるとそれなりに経過している。ほとんどの生徒が校舎に残っていない事実がそれを物語っていた。静まり返ってはいないが閑散とした空気が校舎内を包んでいる。
テンポよく階段を下りるとすぐ4組の教室までたどり着いた。そこから目と鼻の先にある靴箱から「みとー」と呼ぶ声がして二人で声のした方を向く。
「春香、どうしたの? 部活は?」
「今休憩中。ねぇ、あやの知らない?」
部活着を纏った春香が少し間延びしたように美都の名を呼んだ。
先程部活へ向かう二人を見送ったため不思議に思って概要を訊くと、どうやらあやのを探しているようだ。
「あやの? 見てないけど……一緒じゃなかったの?」
「さっき突き指して『保健室行ってくるー』って行ったっきり戻ってこなくて。教室にもいないみたいだし。美都見てないかなーって思ったんだけど」
「わたし今職員室から戻ってきたばっかりだけど、上にもいなかったよ」
「そっかー。どこ行ったんだろ。もし見かけたら『早く帰って来い!』って伝えて」
そういうと春香は足早に体育館の方へ戻っていった。
彼女の背中を見送りながら小首を傾げる。保健室から体育館までは距離も程無いのですぐに行き来は出来るはずだ。春香の言い方からするにしばらく戻っていないようだった。
気がかりではあるが持てる情報が少ない。もしかしたら職員室で入れ違いになったという可能性はあるが、そうだとしたら間もなく戻るだろう。
その考えを自分の中に落とし込み、再び向きを変えた。
「じゃあちょっと鞄取ってくるね」
頷いた凛を4組の教室に残し、美都は自身の教室へ向かった。7組の教室は校舎の一番端だ。
通り過ぎた5組、6組にも既に人影はなかった。随分凛を待たせてしまっていたのであろう。探しにくるのも当然だ。
2つ分の教室を超え、ようやく自身の教室へ戻る。教室内には、出てきた際に残してきた鞄が煩雑に置かれていただけだった。それを確認すると真直ぐに自分の席へ向かう。
そう言えば四季はあの後どうしたのだろう。あのまま部活見学へ向かったのだろうか。それともまだ職員室で話しているのだろうか。鞄が無いところを見ると既に帰宅したという可能性もある。
ともかく帰れば今日の話が出来る。そう思って自分の鞄を持ち上げた。
────瞬間。
「──……っ!?」
言い表しようのない悪寒が、美都の背筋をなぞった。
思わずその場で振り返る。だが辺りは何の変哲もない。
それでもこの気配は妙だ。正常ではない。はっきりとはわからないが直感でわかる。心臓が早鐘を打つ。
「なに……?」
呟くように声を発する。いつもと『何か』が違う。きょろきょろと目線を動かす。
ふと自分の手元に目が動いた。少しの違和感を覚えたのだ。
自身の右手をあげる。右手の指に貼った絆創膏。変化があるのは絆創膏ではない。その下に隠した指輪だ。
美都は急いで絆創膏を剥がした。
「……!」
指輪の赤い溝が光っている。この現象は初めてではない。覚えている。あの時と同じだ。あの公園で起こった出来事と。
つまり、近くに宿り魔が出現したのだ。このままにはしておけない。スポットを探さなければ。早くしなければ対象者が危険だ。
美都は動揺しながらも一目散に教室を出た。
それでも先に伝えなければならない人物がいる。真っ先に4組へ向かった。
「凛!」
自分の教室でおとなしく待っていた凛へ、廊下の窓越しから叫んだ。
何事かとその声に反応して凛が美都を見る。
「ごめん、まだ用事あった! 今日は先に帰ってて! 本当にごめん!!」
「え!? 美都!?」
全力でそれだけ伝えると美都はまた息せき切って走り出した。
凛の驚いた声を背中で受けながら、気配を感じる方へ校舎を疾走する。
気配と言っても何か特別に禍々しいものが判るわけではない。背中に感じる悪寒と指輪の光を頼りに走るしかなかった。
走りながら指輪を確認すると、溝の赤い光が増しているようだった。これがレーダーになっているのだとしたら方向的には間違っていないはずだ。今はただ直感とこの指輪を信じるしかない。
「!」
無我夢中で動かしていた足を留める。
場所は保健室がある校舎の裏側だ。生い茂る木々の隙間を生温い風が通り抜ける。妙な違和感を近くで感じた。荒々しく呼吸を繰り返して辺りを見る。ここだけ不気味なほど静かすぎるのだ。
美都は自分の勘を信じ、右手を胸の前に掲げ、手のひらをゆっくりと押し出すように伸ばした。
「────……!!」
何もないはずの空中に波紋が広がる。
間違いない。ここがスポットの入り口だ。
美都は息を呑んだ。
できるだろうか。自分に。あの化け物と戦うなんて。前回は何が起こっているのかわからない状態だった。
掲げた右手を握りしめる。
それでもやるしかない。この指輪が自分を選んだのなら。
美都は喉をぐっと引き締め、前を向いた。再度右手を開き、震える手で空中を押す。
そしてそのまま現れた波紋に身を投じた。





最初に聞こえたのは悲鳴だった。
前回耳にした宿り魔の咆哮ではなく、甲高い少女の声。
スポットの内部に入る際閉じた瞼をゆっくりと開く。色が反転された空間が目の前に広がった。
その声の発信源を無意識に探す。
「────っ……!」
目にした光景に思わず両手で口を押えた。
人の等身を象る化け物──宿り魔が笑みを浮かべ少女の胸ぐらを掴んでいた。
目を見張ったのはそれだけではない。宿り魔が少女の胸の前に妖艶に光る刻印を翳し、何かを取り出そうとしていたのだ。少女は苦痛を堪える様に顔を歪ませ、声も段々とか細くなっていく。
その少女の顔を認識した美都は、更に声を詰まらせた。
(……あやの──……!)
先程、春香が彼女の所在を探していたことを思い出した。
スポット内に囚われていたのだ。見つかるはずがない。そう思った矢先、完全に彼女の声は掻き消え、同時に目を引くほどの光が胸元で輝いた。
(……! 心の、カケラ──……!)
弥生から説明を受けた通りだ。少女の胸元で光を放つ宝石のような物質。宿り魔の狙いはあれだ。
宿り魔はそれが出現した事を確認するとあやのから手を離した。当然彼女の身体は重力に逆らうことなくその場に倒れ込んだ。
その音にハッとする。
────あれを渡したらだめだ。
そう思い、竦む足をなんとか稼働させた。一目散に無我夢中で足を動かす。
宿り魔の手に渡ろうとするその瞬間を阻止し、彼女のカケラを自分の手に包み込んで一気に駆け抜ける。
手中に収まったそれを隠すようにしながら美都は宿り魔の方へ振り向いた。
「は……、っ……!」
心臓が早鐘を打っている。荒々しく呼吸を繰り返した。
宿り魔は予想外の侵入者に一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐにその表情は憤怒へと変わった。
『何者だ。それを渡せ』
改めて対峙するその化け物を見つめる。声や表情は人間によく似ているものの決定的に容姿が違う。その不気味な雰囲気に気圧されそうになる。
「いや……──!」
声が震える。足も再び竦み始めた。
────怖い。
本当ならばすぐにでもこれをあやのへ戻さねばならない。しかし、彼女の身体はまさしくその宿り魔の足元にある。
春香の時と同様、倒れた少女の顔は青白く身体はぐったりとしていた。駆け寄りたくとも宿り魔がそれを阻んでいる。
『ならば力ずくで奪うのみだ──!』
「──っ……!」
美都の態度にとうとう宿り魔は苛立ちを隠せなくなったようだった。
宿り魔が右腕を掲げるとその背後にバスケットボールのような物体が複数現れる。そして今度はその右腕を前方へ伸ばすと一斉にそれが美都を目がけて襲いかかってきた。
「……! っ──、きゃっ!」
初めの数個は回避したものの数が多すぎるのと心のカケラを持ったままの不安定な体勢で完全に避けきることが出来ず、美都に勢いよくボールがぶつかった。反動で後ろにのけ反り下を向く。
その間も心のカケラは離さずに包み込んではいたが一気に体勢を崩された。顔を上げようとした次の瞬間には、既に宿り魔が自分の足元へと迫っていた。
宿り魔はそのまま美都の左腕を掴み、容赦なく上へ持ち上げる。
「っあ……!」
思いがけない力の強さに顔を背ける。包み込んでいた両腕を引き離され、美都の手から心のカケラが零れ落ちた。
宿り魔はそのまま強引に掴んだ腕を無造作に横に放り投げた。
美都の身体は投げ飛ばされる形になり、地面へ倒れ込む。
「……っ!」
『他愛もない』
宿り魔は美都を横目で見下ろしながら呟く。
そして向きを変えると、美都の手から落ちたあやのの心のカケラを無造作に掴んだ。
「──っ! やめて!」
倒れた視界の先でその光景を目にした美都は、宿り魔に向かって叫ぶ。必死に起き上がろうとするが上手く力が入らない。もどかしさに唇を噛みしめた。
宿り魔は再び美都の方へ向き直ると心のカケラを手にしたままニヤリと口角を上げた。
『人間とは弱いな。安心しろ、すぐにお前も片づけて──』
その瞬間銃声が鳴り響いた。
宿り魔が言葉を言い終わる前に銃弾がそれを遮る。
(! 四季……!)
上半身を起こしながら銃声のした方を見ると少年が立っていた。銀髪に翠の瞳。守護者としての彼の姿だ。
弾は見事に命中し、攻撃をまともに食らった宿り魔は咆哮をあげる。
四季は流れを止めることなく続けて2発、その身体目がけて発砲した。
『小癪な──……!』
痛みに悶えながらも宿り魔は先程と同じようにボールを出現させ、それを四季の方へ向けた。
しかし彼は持っている銃で相殺し、避けながら美都の前まで回り込んだ。美都を背に、四季が叫ぶ。
「何やってんだ!」
「ごめん、でも……!」
四季自身も予想外だったのか、少し語気が強まる。
彼に謝りながら、握りしめた右手を確認するがやはり指輪に変化は見られない。何とも言い難い感情に美都は顔を歪ませた。
四季は体勢を立て直し、銃口を再び宿り魔へ向ける。彼が放った攻撃が随分効いているようだ。宿り魔は唸り声を上げていた。
慎重に対象に照準を合わせ目を細める。
「天浄、清礼!」
引き金をひくと先程と違った銃声が鳴り響いた。光を帯びた銃弾が宿り魔の身体を貫く。
宿り魔から金切り声があがった。しゃがんだまま四季の背後からその姿を確認する。身体を貫かれた宿り魔は断末魔を叫び、光の粒子となって消滅した。
美都は深く息を吐き、項垂れる。
宿り魔を退けた四季も安堵の息をもらし、美都の方へ振り向いた。
「なんで──。……守護者の力は?」
四季の問いに一瞬肩を竦めると、美都は顔を歪ませ首を横に振った。
自分でもどうしたら良いかわからない。否、どうもできなかったというのが事実だ。
恐らく四季もこの状況は予想していなかったのだろう。だからこその問いだ。
美都は項垂れたまま再び指輪を見る。
「ごめん、なさい……」
自分が情けなくて、悔しかった。対峙する宿り魔を目の前にしたら恐怖心が勝ってしまったのだ。
四季が来てくれなければ自身も危ないところだった。宿り魔に掴まれた左腕を押さえる。まだ感触が残っているかのようだ。
そんな美都を見下ろしていた四季は浅く息を吐くと美都の前に手を差し出した。
「ほら」
「……! ……ありがとう」
目の前に差し出された手を取って、美都はゆっくり立ち上がる。
倒された際に出来た擦り傷を見ながら四季が呟いた。
「生身の身体で、武器も持たず戦うなんて無茶だ」
「……うん」
そう言うと四季は踵を返し、倒れたままのあやのの元へ歩く。
ようやく足の震えが止まった美都も、覚束ない足取りでゆっくり歩を進めた。
宿り魔がいた場所の地面に落ちている、宝石のような輝きを放つ心のカケラを拾い上げる。
その横で四季があやのの身体を起こしながらおもむろに言った。
「仮死状態が長く続けば、それだけ本人に負荷がかかる。なるべく早く戻してやれ」
あやのの身体を校舎へ寄りかけさせると心のカケラを持つ美都に伝えた。
美都はハッとして小走りで彼女の元へ向かう。
春香のときに教えてもらった通り、彼女の胸の前へ心のカケラを掲げる。するとそれは微かな光を放ちながら少女の胸へ溶け込むように消えていった。その光景に一旦胸をなで下ろす。
「少しすると意識も戻る」
「うん……」
「とりあえず話すのは帰ってからだ」
まだ様々な衝撃から正気に戻れずにいる美都に対して、四季は淡々と用件を伝えた。彼女はそれに半ば放心状態で相槌を打つ。
四季は再び浅い溜息を吐くと美都を背にして歩いた。
「スポットが消えるぞ」
そう四季が言った瞬間、あっという間に空に亀裂が入りガラスが砕かれるような音が響く。美都は思わず目を瞑った。
ゆっくりと目を開くと反転された世界は消え、辺りにはいつも通りの光景が広がっていた。
あやのの顔色も戻っている。四季の言うようにまもなく意識が戻るのだろう。先程の言葉を残し、彼はまた前回と同じように姿を消していた。
まだ呆然としたままあやのの横に膝を畳んで座り、校舎にもたれかかる。
彼女が目を覚ますまでは傍にいなくては。
美都はゆっくりと深く長い息を吐く。
宿り魔に掴まれた左腕を思わず押さえる。身体が小刻みに震えているのがわかった。
ただ、怖かった。この世のものじゃないというだけで足が竦んだ。加えてあやのの苦痛を堪える悲鳴が耳に残っている。
あれは、いったい何?
(本当に……わたしに出来るの?)
指輪は何も反応を示さなかった。本当に自分が守護者なのだろうか。
右手を強く握り締める。指輪は確かに自分の指に嵌っている。
美都は目を細めると、抱えていた膝に顔を埋めるようにして俯いた。




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