骨の髄まで愛したい
 私がこの3人との同居生活を始めてそろそろ1ヶ月になる。居心地の良さを知ってしまうと、もうあの寂しい自分の家に戻ろうとは思わない。
 亮太の作るご飯は毎日美味しいし、姉御肌の頼れる杏ちゃんは私にやすらぎをくれる。

 今更離ればなれの生活に戻れるとも思えない。
 
 そして…きっと、初めて会った瞬間から始まっていたであろう、英二に対するこのもどかしい気持ちの正体に、美咲は気付きつつあった。  
 

 ──私が初めてこの3人に出会ったのは、温かい日差しが冬の寒さを忘れさせる、美しい桜の季節だった‥。

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 (はぁ)
 美咲は深い溜息をついた。
 入学式の日に、たくさんの親子の会話で賑わう学校までの道を、たった1人で歩く虚しさが分かるだろうか。誰が理解してくれるだろうか。
 卒業式も来なかった仕事人間の父親が、入学式に来てくれるとは到底思えなかった。
 
 いつからだろうか。父との会話がなくなったのは。

 私の母は、私を出産してすぐに亡くなったと聞いた。だから母の記憶は全くない。物心ついた時から父と2人の生活だった。
 
 ときどき私は夢をみる。
 
 幼い私は、また同じ、幼い私と手を繋いで走り回っている。もう1人の幼い私は、私に優しく微笑む。そして、静かに2人の手が離れていく。
 そこで目が覚めるのだ。
 きっと、兄弟でもいればこんな寂しい夢をみることもないだろう。
 もともと口下手な私は学校でも友達ができないから、生活のほとんどは1人で過ごし、1日中口を開くことなく終わる日もある。
 
 ”寂しい”
 
誰とも会話しない生活が当たり前になって、いつしかこの言葉さえも思い浮かばなくなっていた。
 
 きっとこれから始まる高校生活も、つまらない日常をひたすら繰り返す日々になるだろうと、入学初日から私は考えていた。
 
 校長先生や在校生の話を聞き、ひと通りの説明を受け、大量の教科書を購入したあと、賑やかな通学路をまた1人で歩くのが嫌で、ほとぼりが冷めるまで体育館横のベンチに座って待っていた。
 少し暗くなってきて、ひんやりとした空気に移りゆくころ、私はようやく家路に着こうと歩き出した。
 両手に、重い教科書が入った手提げを持っているため、歩くスピードが普段より遅くなる。
 
 
 「重そうだね、持ってあげるよ」
 
 
 顔のすぐ近くから聞こえてきた。驚いて振り返ると無造作に髭がのびた30代くらいの男がにやにやと笑っていた。しわがよったTシャツとダメージジーンズが一層男のだらしなさを強調している。
 
 私はぞっとして、早足にその場を去ろうとした‥‥が、ぐっと右手を掴まれ、そばの壁に勢いよく押し付けられた。
 
 (やだ、気持ち悪い)
 
 そう思っても普段声を出すことのない私が、大きな声で助けを呼べるはずがなかった。
 男の手が私のスカートの下に滑り込もうとする…。
 そのとき、目の前にあった男の顔が横にはじき飛ばされた。一瞬私は何が起こったか理解できず呆然としていた。

 「大丈夫か?」
 

 その声ではっと我に帰る。
 
 端整な顔立ちで、同じ高校の制服をゆるく着崩した青年が私の顔をそっとのぞきんこんだ。
 
 「は、はい」
 
 私は声を振り絞るように返事したが、安心感で足の力が抜け、ふらふらとその場に座りこんだ。
 
 その青年は、倒れて四つん這いになる男の背中に乗り、男の両手を背中で、自分のベルトを使って縛り上げた。
 
 「杏子、サツ呼べ!」
 
 「りょうかい」
 
 杏子と呼ばれた明るい髪の女の人は座り込む私にかけ寄り、怖かったねと私の肩をさすりながら、携帯を操作する。

 だんだん落ち着いてきた私は、ようやく事態を把握した。
 今、男を押さえつけている青年が、私を襲っていた男の顔めがけて、飛び蹴りを食らわしたのだ。
 
「新入生? 私たち今ここの2年なの」
 
 手際よく電話を済ませた杏子さんは私に話しかけてきた。まだ優しく肩をさすってくれている。

「‥はい」
 
「入学初日から災難だね。あいつ強いでしょ、英二。この辺では誰にも負けないと思う。空手2段だからね」
 
 私を安心させようとしてくれているのか、杏子さんは、すごいスピードで話し始めた。もともとおしゃべりなのもあるだろう。
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