探偵日記
第5話『 身上調査の女 』2、意外な事実
「 可知さん? ああ、そこんトコの国道で、事故でねぇ… お子さん達にとっては不憫な事だったよ 」
ステテコ姿で、応対に出て来た新聞販売店の店主は言った。 年齢は、60代後半だろうか。 黒フチの老眼鏡を掛けている。
葉山は、探りを入れる為、誘導会話を仕掛けた。
「 そうだったんですか… いや、実は私… 可知さんにお金を貸してまして… まあ、金額は微々たるものなんで、諦めますがね 」
店主は、敏感に反応した。
「 …やっぱり? そんなこったろうと思った。 可知さん、競馬に凝ってたからねえ~…! 奥さんとも、随分その事でモメてたらしいからさ 」
「 いい人なんですがね、可知さん 」
当り触りのない人格表現… これは誰にも使える言葉だ。 しかも、聞き手側は勝手に当事者と深い関わりのある人物… と、カン違いしてくれる。
「 まあね。 酒さえ飲まなきゃ、子煩悩な人さね… 随分、奥さんに手を上げてたらしいから 」
「 そうなんですか? そんな乱暴な人には、見えなかったんですけどねえ 」
店主は、小声で言った。
「 故人を、けなすつもりじゃあないが… いつだったか、集金に行ったらさ、奥さん… 顔を腫らせててさ。 ダンナに殴られた、って言ってたよ 」
「 そうなんですか? 」
店主は、更に小さな声で、葉山に言った。
「 ここだけの話し… ダンナから奥さんが入院した、って聞いてるけど… ありゃ、違うって…! 逃げたんだよ。 最近、よくあるだろ? 夫婦のケンカで 」
「 DV、ですか? 」
「 よく知らねえが、そんなんだよ。 奥さんも、もう逃げ出したい、ってボヤいてたからよ 」
その時、奥の部屋から中年の女性の声が聞こえた。
「 アンタッ! 爪切り、ドコやったんだいっ? 勝手に持ってくな、つってんだろっ! 」
店主は、その声に縮み上がり、首をすくめると、葉山に言った。
「 …ウチは、反対だぜ…! なあ、今の話し、内緒にしといてくれよ? 逃げた、って証拠があるワケじゃないんだからな…! 」
店主は、そそくさと奥の部屋へ戻って行った。
ため息を尽く、葉山。
意外な事実だった。 しかし、たった1人からの聞き込み情報を鵜呑みにするのは、少々、問題がある。
葉山は、近くにあった酒屋へ入った。
「 すみませ~ん。 この辺りに、可知さんって家、ありませんか? 」
「 ああ、この道行って、最初の角を左に曲がって… 3軒目ですよ 」
店内にいた、エプロン姿の中年女性が答えた。
「 あれ? さっき通ったハズなんだけどなあ… 見落としたかな? 」
葉山が、そう言うと、女性は尋ねた。
「 可知さんトコに用事ですか? 」
「 ええ。 ダンナさんにね 」
女性は、困ったような顔をした。 葉山は、すでに誘導会話に入っている。
いぶかしげな表情をして、女性は尋ねた。
「 …お客さん、ダンナさんのお知り合い? 」
「 ええ 」
「 ダンナさん… 亡くなられたのよ? 事故で 」
「 えっ! ホントですか? それは… 知らなかったな。 いつなんですか? 」
「 3ヶ月前だったかしら 」
葉山は、傍らにあったボトルクーラーから緑茶のペットボトルを出し、レジに置きながら、独り言を呟くように言った。
「 参ったなあ~…! そうなんですか… まあ、奥さんにでも相談するか…… 」
「 奥さんも… 居ないわよ? 」
レジを打ちながら、彼女が言った。
「 …はい? 今、何と…? 奥さん、どっか行っちゃったんですか? 」
彼女は、しばらく葉山の顔を見ながら思案していたが、やがて聞いて来た。
「 …お宅は、可知さんの身内の方ですか? 」
葉山は、小銭を出しながら答えた。
「 いいえ。 以前、車を購入して頂きましてね。 半年くらい前にお電話を頂き、次回のボーナス時期に、奥さんのミニバンを買い替えたいとご相談頂きまして… 」
「 ああ、車屋さんなのね。 …実は、奥さん… 入院されてるの 」
「 あれま 」
小銭をレジに回収しながら、そう言った彼女に対し、葉山はペットボトルの蓋を開けると、気付いたように演出し、言った。
「 …ん? 変だな。 私、先週・・ 奥さんを見かけましたよ? 中区のファミレスで。声を掛けようとしたんですが、清算してるトコだったもんですから、すぐに出ていかれて… 」
葉山の誘導会話であるが、彼女は、それを聞くと興味を示した。
「 やっぱり? あたしも一度、見かけたの。 遠目だったけど… 確かに可知さんだったわ 」
「 退院されたのかな? 」
緑茶を飲みながら、葉山が言うと、彼女は、レジを閉め、声の大きさを一段落として言った。
「 …奥さんね、多分、実家に帰っちゃったのよ…! ダンナとケンカして 」
「 ケンカですか? そんな事ないでしょ。 仲、良かったみたいだし 」
「 違うのよォ…! ダンナ、暴力を振るってたみたいなの。 酔っ払うと、手が付けられなくなったみたいよ? 頭に包帯、巻いてた時もあるもん 」
「 え~? 何か、信じられないなあ…! 」
「 絶対、そうよ。 でも… お葬式の時に出席してなかったのは、変だけど? その時は、ホントに入院してたのかもね 」
車に戻り、タバコをふかしながら思案する、葉山。
( う~む、単純な身上調査じゃ、なくなって来たぞ……? 大体は、つかめたな。 対象者の『 可知 優子 』は、ダンナのドメスティック・バイオレンスに耐え切れず、家を飛び出したんだ。 これは証拠が無く、あくまで状況推測だが、その可能性は大きい… その後、依頼者の愛人になり、現在は、あのマンションで暮らしているという訳だ )
世間体を気にしたダンナは、『 女房は入院した 』という設定情報を近所に流したのだろう。
( その後、時期を同じくして事故に会い、不幸にも亡くなってしまったワケか… )
対象者には、子供がいる。 おそらく、まだ幼い。 対象者が、いつも寂しそうにしている背景には、子を想う親としての心情があると思われる。 また、そんな幼い子を残し、飛び出して来てしまった自分の浅はかな行動に、悔いを残しているに違いない。
( 対象者は、ダンナが事故死した事を知らないだろうな…! )
ここが、大きなポイントだ。
通常、家裁では、別居など、結婚生活が破綻して3ヶ月以上が経過している場合、夫婦としては容認しかねる内容に沿った判決が下される事が多い。 本件の対象者である彼女も、未亡人として今後、子供たちとあの家で暮らしていく事が、民法上でも正当に認められる為の時間は、もうほとんど残されていないという事になる。
( 対象者に、この事を伝えた方が良さそうだな…! でも、俺には、守秘義務がある… )
職務上、知りえた情報を、故意に第3者などに漏らす事は堅く禁じられている。 記者や弁護士などによくある、あれだ。 探偵の葉山にも、それは該当する。
( 依頼者に動いてもらうほか、無いな )
大人としての配慮… 依頼者のそれに、期待するしかないようだ。
データ調査により、生年月日・出身校・職務経歴などが判明した。 本来、身上調査は、こういった情報の収拾が優先される。 しかし、今回の案件は別だ。 対象者自身の、身の上情報が最優先項目である。 葉山は、通常の判明情報に加え、聞き込みで得た証言情報も詳しく報告書に記載し、まとめ上げた。
「 失踪者だったのか、彼女は…! 」
喫茶店で待ち合わせをし、報告書を読んだ依頼者は、呟くように言った。
タバコに火を付け、葉山が言った。
「 失礼ながら申し上げます。 彼女に、あたなと再婚する気が無く… 結果、彼女と別れる事になった場合… ご亭主が亡くなっている事を、彼女に告げて頂けませんか? 」
依頼者は、何も答えない。
「 あなたが、彼女を失いたくないお気持ちは、良く分かります。 …でも、あなたの行動ひとつで、1人の人生が左右されるのですよ? 子供を置いて、家を飛び出して来た彼女も悪い。 しかし、やり直しのチャンスは、誰にでも、平等に与えられるべきだと私は思います。 あなたのわがままで、その芽を摘んではいけない 」
依頼者に説教など、本来は、ご法度ものだ。 しかし、その依頼者は、じっと葉山の言葉を聞いていた。 大人としての… しいては、人としての人道的配慮の存在に、葉山は期待していた。 こんな冷め切った世の中、小さな親切心のかけらくらい、あってもいい……
葉山は、依頼人の言葉を待った。
「 葉山さんは、どう思うかね? 私たちの関係を 」
…難しい質問である。 人間関係… 特に、恋愛に関する定義は、人それぞれ考え方が違う。
「 私、個人としての考えを述べさせて頂くなら… 」
葉山は、前置きをしてから答えた。
「 恋愛は、自由でしょう… お互いの合意の元なら、尚更です。 だけど、夫婦である以上、その義務は果たさなくてはならないと思います。 それを重荷と感じるならば、最初から結婚などしない方が良いでしょう。 …また、義務を感じてない連中は、無責任に、本能のみの行動に出ます。 それが浮気です。 刺激が欲しいだとか、男は『 種の保存 』の為に、本能的に浮気をするだとか… 勝手な事をもっともらしく力説する人がいますが、自分のエゴを正当化しているだけですね。 …恋のまま、結婚した末路は悲惨ですよ? 私は、それを幾つも見て来ました 」
依頼者は、しばらく沈黙した後、コーヒーカップを口に運びながら言った。
「 探偵ならではの主観だね… 仕事柄、男女問題の話も多い事だろう。 葉山さんは、いっそ恋愛のセラピストにでもなったらどうかね? 」
「 体が動かなくなったら、そうしますかね 」
依頼者は、報告書を手に、喫茶店を出て行った。
その後、依頼人からは何の連絡も無かった。
何も約束をした訳でもない。 対象者に話したのか、話さなかったのか… はたまた、再婚する事になったのか… 気には掛かるが、案件としては終わった仕事だ。 こちらから依頼者に確認する訳にもいかない……
数日後の夜、とりあえず葉山は、あのマンションに寄ってみた。
掛けてあった、依頼人の名前の表札が無い。
「 ? 」
電気メーターの針も、動いていないようだ。 隣の部屋には、新に誰か入居したらしく、真新しい表札が掛けてある。 葉山は、それとなく、その住人に聞いてみた。
「 隣の人? ああ、女の人ね。 引っ越して行ったよ? まだ新しいラック、貰っちゃってさあ~、助かっちゃった。 引っ越し先? 確か、西区・・だとか、言ってたかな? 」
あの家がある所だ。 依頼人と別れ、帰ったのだろうか? そう願いたい…
西区の家にも寄ってみると、何と、家には明かりが点いていた…!
( あの依頼人… 話してくれたんだ…! )
この先、いくらかの近所の目はあるだろうが、それは、いずれ淘汰される事だろう。 時が、全てを解決させてくれる。 依頼人の『 人を思う行動 』が、1人の女性の人生を再スタートさせたのだ。
庭先の芝に漏れる平和そうな明かりに、安堵感を感じる…
車を発進させつつ、葉山は明かりの見える窓を見ながら、呟くように言った。
「 頑張れよ…! 」
葉山の仕事は、終った。
〔 身上調査の女 / 完 〕
ステテコ姿で、応対に出て来た新聞販売店の店主は言った。 年齢は、60代後半だろうか。 黒フチの老眼鏡を掛けている。
葉山は、探りを入れる為、誘導会話を仕掛けた。
「 そうだったんですか… いや、実は私… 可知さんにお金を貸してまして… まあ、金額は微々たるものなんで、諦めますがね 」
店主は、敏感に反応した。
「 …やっぱり? そんなこったろうと思った。 可知さん、競馬に凝ってたからねえ~…! 奥さんとも、随分その事でモメてたらしいからさ 」
「 いい人なんですがね、可知さん 」
当り触りのない人格表現… これは誰にも使える言葉だ。 しかも、聞き手側は勝手に当事者と深い関わりのある人物… と、カン違いしてくれる。
「 まあね。 酒さえ飲まなきゃ、子煩悩な人さね… 随分、奥さんに手を上げてたらしいから 」
「 そうなんですか? そんな乱暴な人には、見えなかったんですけどねえ 」
店主は、小声で言った。
「 故人を、けなすつもりじゃあないが… いつだったか、集金に行ったらさ、奥さん… 顔を腫らせててさ。 ダンナに殴られた、って言ってたよ 」
「 そうなんですか? 」
店主は、更に小さな声で、葉山に言った。
「 ここだけの話し… ダンナから奥さんが入院した、って聞いてるけど… ありゃ、違うって…! 逃げたんだよ。 最近、よくあるだろ? 夫婦のケンカで 」
「 DV、ですか? 」
「 よく知らねえが、そんなんだよ。 奥さんも、もう逃げ出したい、ってボヤいてたからよ 」
その時、奥の部屋から中年の女性の声が聞こえた。
「 アンタッ! 爪切り、ドコやったんだいっ? 勝手に持ってくな、つってんだろっ! 」
店主は、その声に縮み上がり、首をすくめると、葉山に言った。
「 …ウチは、反対だぜ…! なあ、今の話し、内緒にしといてくれよ? 逃げた、って証拠があるワケじゃないんだからな…! 」
店主は、そそくさと奥の部屋へ戻って行った。
ため息を尽く、葉山。
意外な事実だった。 しかし、たった1人からの聞き込み情報を鵜呑みにするのは、少々、問題がある。
葉山は、近くにあった酒屋へ入った。
「 すみませ~ん。 この辺りに、可知さんって家、ありませんか? 」
「 ああ、この道行って、最初の角を左に曲がって… 3軒目ですよ 」
店内にいた、エプロン姿の中年女性が答えた。
「 あれ? さっき通ったハズなんだけどなあ… 見落としたかな? 」
葉山が、そう言うと、女性は尋ねた。
「 可知さんトコに用事ですか? 」
「 ええ。 ダンナさんにね 」
女性は、困ったような顔をした。 葉山は、すでに誘導会話に入っている。
いぶかしげな表情をして、女性は尋ねた。
「 …お客さん、ダンナさんのお知り合い? 」
「 ええ 」
「 ダンナさん… 亡くなられたのよ? 事故で 」
「 えっ! ホントですか? それは… 知らなかったな。 いつなんですか? 」
「 3ヶ月前だったかしら 」
葉山は、傍らにあったボトルクーラーから緑茶のペットボトルを出し、レジに置きながら、独り言を呟くように言った。
「 参ったなあ~…! そうなんですか… まあ、奥さんにでも相談するか…… 」
「 奥さんも… 居ないわよ? 」
レジを打ちながら、彼女が言った。
「 …はい? 今、何と…? 奥さん、どっか行っちゃったんですか? 」
彼女は、しばらく葉山の顔を見ながら思案していたが、やがて聞いて来た。
「 …お宅は、可知さんの身内の方ですか? 」
葉山は、小銭を出しながら答えた。
「 いいえ。 以前、車を購入して頂きましてね。 半年くらい前にお電話を頂き、次回のボーナス時期に、奥さんのミニバンを買い替えたいとご相談頂きまして… 」
「 ああ、車屋さんなのね。 …実は、奥さん… 入院されてるの 」
「 あれま 」
小銭をレジに回収しながら、そう言った彼女に対し、葉山はペットボトルの蓋を開けると、気付いたように演出し、言った。
「 …ん? 変だな。 私、先週・・ 奥さんを見かけましたよ? 中区のファミレスで。声を掛けようとしたんですが、清算してるトコだったもんですから、すぐに出ていかれて… 」
葉山の誘導会話であるが、彼女は、それを聞くと興味を示した。
「 やっぱり? あたしも一度、見かけたの。 遠目だったけど… 確かに可知さんだったわ 」
「 退院されたのかな? 」
緑茶を飲みながら、葉山が言うと、彼女は、レジを閉め、声の大きさを一段落として言った。
「 …奥さんね、多分、実家に帰っちゃったのよ…! ダンナとケンカして 」
「 ケンカですか? そんな事ないでしょ。 仲、良かったみたいだし 」
「 違うのよォ…! ダンナ、暴力を振るってたみたいなの。 酔っ払うと、手が付けられなくなったみたいよ? 頭に包帯、巻いてた時もあるもん 」
「 え~? 何か、信じられないなあ…! 」
「 絶対、そうよ。 でも… お葬式の時に出席してなかったのは、変だけど? その時は、ホントに入院してたのかもね 」
車に戻り、タバコをふかしながら思案する、葉山。
( う~む、単純な身上調査じゃ、なくなって来たぞ……? 大体は、つかめたな。 対象者の『 可知 優子 』は、ダンナのドメスティック・バイオレンスに耐え切れず、家を飛び出したんだ。 これは証拠が無く、あくまで状況推測だが、その可能性は大きい… その後、依頼者の愛人になり、現在は、あのマンションで暮らしているという訳だ )
世間体を気にしたダンナは、『 女房は入院した 』という設定情報を近所に流したのだろう。
( その後、時期を同じくして事故に会い、不幸にも亡くなってしまったワケか… )
対象者には、子供がいる。 おそらく、まだ幼い。 対象者が、いつも寂しそうにしている背景には、子を想う親としての心情があると思われる。 また、そんな幼い子を残し、飛び出して来てしまった自分の浅はかな行動に、悔いを残しているに違いない。
( 対象者は、ダンナが事故死した事を知らないだろうな…! )
ここが、大きなポイントだ。
通常、家裁では、別居など、結婚生活が破綻して3ヶ月以上が経過している場合、夫婦としては容認しかねる内容に沿った判決が下される事が多い。 本件の対象者である彼女も、未亡人として今後、子供たちとあの家で暮らしていく事が、民法上でも正当に認められる為の時間は、もうほとんど残されていないという事になる。
( 対象者に、この事を伝えた方が良さそうだな…! でも、俺には、守秘義務がある… )
職務上、知りえた情報を、故意に第3者などに漏らす事は堅く禁じられている。 記者や弁護士などによくある、あれだ。 探偵の葉山にも、それは該当する。
( 依頼者に動いてもらうほか、無いな )
大人としての配慮… 依頼者のそれに、期待するしかないようだ。
データ調査により、生年月日・出身校・職務経歴などが判明した。 本来、身上調査は、こういった情報の収拾が優先される。 しかし、今回の案件は別だ。 対象者自身の、身の上情報が最優先項目である。 葉山は、通常の判明情報に加え、聞き込みで得た証言情報も詳しく報告書に記載し、まとめ上げた。
「 失踪者だったのか、彼女は…! 」
喫茶店で待ち合わせをし、報告書を読んだ依頼者は、呟くように言った。
タバコに火を付け、葉山が言った。
「 失礼ながら申し上げます。 彼女に、あたなと再婚する気が無く… 結果、彼女と別れる事になった場合… ご亭主が亡くなっている事を、彼女に告げて頂けませんか? 」
依頼者は、何も答えない。
「 あなたが、彼女を失いたくないお気持ちは、良く分かります。 …でも、あなたの行動ひとつで、1人の人生が左右されるのですよ? 子供を置いて、家を飛び出して来た彼女も悪い。 しかし、やり直しのチャンスは、誰にでも、平等に与えられるべきだと私は思います。 あなたのわがままで、その芽を摘んではいけない 」
依頼者に説教など、本来は、ご法度ものだ。 しかし、その依頼者は、じっと葉山の言葉を聞いていた。 大人としての… しいては、人としての人道的配慮の存在に、葉山は期待していた。 こんな冷め切った世の中、小さな親切心のかけらくらい、あってもいい……
葉山は、依頼人の言葉を待った。
「 葉山さんは、どう思うかね? 私たちの関係を 」
…難しい質問である。 人間関係… 特に、恋愛に関する定義は、人それぞれ考え方が違う。
「 私、個人としての考えを述べさせて頂くなら… 」
葉山は、前置きをしてから答えた。
「 恋愛は、自由でしょう… お互いの合意の元なら、尚更です。 だけど、夫婦である以上、その義務は果たさなくてはならないと思います。 それを重荷と感じるならば、最初から結婚などしない方が良いでしょう。 …また、義務を感じてない連中は、無責任に、本能のみの行動に出ます。 それが浮気です。 刺激が欲しいだとか、男は『 種の保存 』の為に、本能的に浮気をするだとか… 勝手な事をもっともらしく力説する人がいますが、自分のエゴを正当化しているだけですね。 …恋のまま、結婚した末路は悲惨ですよ? 私は、それを幾つも見て来ました 」
依頼者は、しばらく沈黙した後、コーヒーカップを口に運びながら言った。
「 探偵ならではの主観だね… 仕事柄、男女問題の話も多い事だろう。 葉山さんは、いっそ恋愛のセラピストにでもなったらどうかね? 」
「 体が動かなくなったら、そうしますかね 」
依頼者は、報告書を手に、喫茶店を出て行った。
その後、依頼人からは何の連絡も無かった。
何も約束をした訳でもない。 対象者に話したのか、話さなかったのか… はたまた、再婚する事になったのか… 気には掛かるが、案件としては終わった仕事だ。 こちらから依頼者に確認する訳にもいかない……
数日後の夜、とりあえず葉山は、あのマンションに寄ってみた。
掛けてあった、依頼人の名前の表札が無い。
「 ? 」
電気メーターの針も、動いていないようだ。 隣の部屋には、新に誰か入居したらしく、真新しい表札が掛けてある。 葉山は、それとなく、その住人に聞いてみた。
「 隣の人? ああ、女の人ね。 引っ越して行ったよ? まだ新しいラック、貰っちゃってさあ~、助かっちゃった。 引っ越し先? 確か、西区・・だとか、言ってたかな? 」
あの家がある所だ。 依頼人と別れ、帰ったのだろうか? そう願いたい…
西区の家にも寄ってみると、何と、家には明かりが点いていた…!
( あの依頼人… 話してくれたんだ…! )
この先、いくらかの近所の目はあるだろうが、それは、いずれ淘汰される事だろう。 時が、全てを解決させてくれる。 依頼人の『 人を思う行動 』が、1人の女性の人生を再スタートさせたのだ。
庭先の芝に漏れる平和そうな明かりに、安堵感を感じる…
車を発進させつつ、葉山は明かりの見える窓を見ながら、呟くように言った。
「 頑張れよ…! 」
葉山の仕事は、終った。
〔 身上調査の女 / 完 〕