ひと夏の、
「あ、濡れてる」
「は……?」

不意に男が声を上げて、鞄の中から何かを取りだした。彼の手に収まったのは、濡れてヨレヨレになった文庫本だった。
そこはかとなく香る麦茶の香りに、私はがっくりと頭を垂れる。男がニヤついているのが嫌でも目に浮かんだ。

「……弁償します」

喉の奥から捻り出せば、男はいよいよ笑い声を上げ、「すげぇ嫌そう」と腹を抱えた。

「いいよやる。どうせ憂さ晴らしで買った小説だから」

放り投げられた文庫本を慌ててキャッチして、貰えないと口を開きかけた時、男が先に「俺さ」と切り出した。

「理不尽な目にあった時、どうしても許せないやつのこと『人間失格』だと思ってんの」

例えば、と続けて、男はシニカルに笑う。

「付き合ってた女が、知らない間に他の男寝取ってた時とか」
「……え」
「やば、バイトあんの忘れてたわ。……じゃあな、羽月」

ひらひらと手を振って歩き出した男の背中を、私は呆然と見送る。暫くすると、全てがどうでもよく馬鹿らしいことのように思えて、ふは、と笑いが漏れた。


笑い過ぎて滲んだ涙を、私は指先で拭った。
右手に握る人間失格の文庫本は、いつまで経っても麦茶の香りがしていた。

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