5時からヒロイン
「今日は定時で退社したく、お願いできますでしょうか?」

珍しく、いや早く帰りたいなどと言ったことがない彼女が、早く帰りたいと申し出た。
何かある。
何か引っかかるが、定時で帰りたいと言っている社員に、ダメだとは言えるはずもなく、渋々承諾した。
彼女がいる席から時々聞こえる物音。

「なんだか騒々しいな」

社長室があるフロアは、役員室と会議室しかないため、とても静かだ。デスクで何をやってることやら、バタンバタンと音がする。
音が止んですぐ、ドアをノックしてきたが、ちらりと時計を見ると、退社時間きっかりの五時だった。

「どうぞ」
「失礼します」

帰りの挨拶をしにきたのか。
何か急な業務を押し付けてやろうかと思うが、こういう時に限って何もない。
しかし俺もセコイな。

「お先に失礼いたします」
「ああ、お疲れ様」

そそくさと帰るところを見ると、やっぱり何かある。
バタン、バタンという音は、片づけをしていた音だったか。
彼女の気配が無くなってそっと覗きに行くと、パンプスの音がカンカンカンと高らかに、走っていく彼女の背中があった。

「やってらんねぇな」

一気にやる気も無くなり、帰り支度をする。なんて情けないんだ。
家に帰れば、だだっ広いマンションに一人。
投資目的で所有しているマンションの一つで、会社に一番近い場所にあったために住んでいるに過ぎない、独身男には無駄な広さのマンション。

「経営者たるもの健康管理は必須だ」

親父から耳にタコができるほど言われていた言葉。そう言われても外食や弁当を買ってすます食事はやめなかった。
でも、いつからか自炊をするようになり、自慢じゃないが腕はあがって、うまい飯が作れるようになった。プロ仕様とも言えるキッチンは、ストレスの発散場所にもなっていた。

「食べさせてやりたいな」

昼休憩も満足にとっていない彼女は、いつもパンを齧っている。そんな食事で身体も心配なのに、食事にも誘ったことがない。
それに引っかかるのは、

「社長と秘書」

ということだ。惚れたのが秘書だっただけだが、世間はそうじゃない。まだ俺は世間体を気にしているようだ。

「しかしあいつ、どこに行ったんだ?」

連絡手段は社用のスマホだけ。個人的な連絡先さえ知らない。

「どこに行ったか調べてやろうか……」

社用のスマホは、追跡が出来るようになっているが、やめよう、それだけは本当にやめよう。そこまでやってしまったら、救いようがない馬鹿になる。
こんなことを考えるようになったのは、年をとったせいなのだろうか。本格的に情けない男になりつつあって、困ったもんだ。
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