5時からヒロイン
なんでもタイミングというのは重要で、それを逃してしまうと今度は、言い出すタイミングさえも逃してしまう。

「どうすればいいか」

俺が悩んでいるとは思っていないだろう彼女は、いつもと変わらない態度で仕事をしている。あんなことがあった後なのに、こうも普通でいられるのかと、不思議でならない。
抱いた女は、幻だったのか?
そんな馬鹿なことはないが、これからどうするべきか、吸収合併より大きな課題だ。
ふと頭をよぎる一夜限りの男。

「いや、まさかだよな。俺のことを好きだと言ったのは確かだし、ちゃんと確かめあったんだ。寝るだけなんてありえない」

彼女が気になりながらも、日々だけは過ぎていき、仕事は忙しくなるばかりで、癒しもあげられず、こき使ってばかりだった。
今日だって、記念品と接待で使う手土産の買い出しに行かせ、多分、昼もまともに食べていないはずだ。
疲れが見え始めていたが、気遣いの言葉もかけてやれない俺は、上司の前に人間失格だ。

「そうか、何かデザートでも買って来るとかすればいいのか。気がきかないな」

話すきっかけになるかもしれないんだし、善は急げ、思い立ったら吉日。後回しにすればするほど、ややこしくなる。
幸いにしてオフィスの周りは、デザート類を買うのに事欠かない地域。財布を持って買い物に出ようとしたとき、ドアをノックして彼女が入って来た。

「失礼いたします。買い物を済ませてまいりました。ご確認いただければと思います」
「あ……ああ……」
「どちらかへ外出なさいますか? お車の手配をいたしますが」

ジャケットを羽織ろうとしていたところだったから、外出すると分かったのだろう。

「いや、いい」
「そう、ですか……?」

不思議そうに首をかしげて、応接セットのテーブルに品物を置く。

「お疲れだった」
「いいえ……自席におりますので御用がございましたらお知らせください」
「分かった」

ほら見ろ。
一度タイミングを逃すと、こうやってずっとタイミングが悪くなる。
何かの法則なのか、それとも俺の行いが悪いのかは分からないが、やることが無くなった俺は、仕方なく席に戻って仕事を始める。
部屋の中は時計の針が動く音だけが流れて、なんとも物悲しい。

「コーヒーが飲みたいな」

コーヒーを頼むために、スピーカー機能を使って呼び出すが、一向に返事がない。

「どうした? いないのか?」

離席をするときは、必ず連絡が入っていた。
心配になった俺は、様子を見るために社長室を出た。

「……」

寝てる。
スーピースーピーと、寝息を立ててすやすや眠ってる。
長い社会人生活で、居眠りを目の当たりにしたのは初めてだ。
業務時間中に居眠りとは、どういうことだと、怒るところだが俺は違う。

「可愛いな」

俺は彼女を怒れない。
激務を強いて睡眠時間も削っていたのだろう。本当に悪いことをした。
ジャケットをかけてやり、寝顔をみるために、彼女の前に座る。

「いい眺めだ」

我が子は目に入れても痛くない、ずっと見ていられると耳にするが、まさにそうだ。
長いまつ毛に、細く筋の通った鼻。
彼女のすべてを穴が開くほど見てしまう。

「いたたたた……」

眠り姫がお目覚めのようだ。
ずっと同じ体勢で眠っていたから、首が痛いのだろう。

「おはよう」
「申し訳ございません!」

勢いよく起き上がり、頭をなんでも下げる。
そんなことをしたら、ふらつくだろうに。止めようとしたら、案の定くらくらきたらしい彼女は、立ちくらみを起こした。

「大丈夫か? 急に立ち上がるからだ」

俺はこのとき、とても悪いことをしてしまったと思った。
こんな状況は恥ずかしいのだろう、俺のジャケットをしっかり抱いて、うつ向いているだけじゃなく、顔色が青いというか白い、顔面蒼白な状態。
つい、寝顔可愛さに見ていたが、素知らぬふりをしてあげた方が、彼女のプライドを傷つけずに済んだのだ。
女心が分からなくなっているとは、情けない。

「ずっと残業続きで寝不足だったのだろう? 申し訳なかったな」
「……勿体ないお言葉……」
「今日はもう帰りなさい。明日また……」

笑顔でいる彼女は毎日でも見たかったが、泣きそうな顔になっている彼女は見たくない。
それでもシュンとなってしまった彼女が可愛くて、顔が緩んでしまった。
定時で退社させたあとも、秘書道を貫いている真面目な彼女が、よからぬことを考えているのではないかと、心配になった。

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