5時からヒロイン
今日の彼女は、なんだか視線がとても低い。

「何だか、身長が低くなった気がするが」
「はい、靴を低くしただけです」
「そうか」

いつもの靴は、視線の位置が違うと分かるくらい高かったのか。よく履いていたな。
コーヒーをすすって、うまいと満足していた俺は、彼女の様子がおかしいことに気が付いた。
どうしたと、声をかける前に、泣きそうな顔の彼女が、爆弾発言をした。

「突然ですがわたくし、水越沙耶は会社を辞めさせていただきます」

もしかして、今までの顔色の悪さは、退職を言い出そうとしていて、思いつめていたからなのか? 

「水越くん?」

さすがの俺も、この爆弾発言に動揺を隠せず、次の言葉が出てこない。
今まで経験したことがないドッキリだ。
今日はエイプリルフールじゃないぞ?

「退職届は後程提出いたします。失礼いたします」

やばい、本気のようだ。
引き留めようとして歩き出した彼女を見て、様子がおかしいことにやっと気が付いた。
歩き方がおかしくて、足元をみると視線が低い意味がやっと理解できた。
なんという勘違いをしていたのだろうか。

「足をどうしたんだ」
「転びました」
「転んだって……見せなさい」
「大丈夫です」

彼女の言うことを静止して、しゃがんで見てみれば、膝はひどくすりむけているし、足首は異常に膨れていた。

「大丈夫なわけがないだろう」
「わ!!」

彼女を抱き上げて、一旦ソファに座らせる。
こんなケガをしてまで出勤するなんて。
こういう時に休みの電話をするもんだろ、まったく。

「膝は擦り傷だけか? 消毒は? 病院は?」

いつも優しく語りかけようと心がけていたが、この時ばかりは落ち着いていられず、矢継ぎ早に問いかける。

「湿布していれば大丈夫ですし、膝は擦り傷です。今日は秘書課にヘルプを頼みましたからご心配には及びません」

んなわけねえだろ。

「病院だ」
「は!?」

秘書課に連絡を入れ、車の手配までを済ませると、正面玄関に彼女を抱きかかえて向かう。
秘書課からは神原くんと、なんの役に立つのか不明な部長までもが、エレベーターに乗り込み大騒動になった。


「あの……社長、あの、そのなんていいますか、私が水越君を支えた方がよろしいかと……」
「部長ではご無理かと思います。ここは、社長にお任せしてよろしいのでは?」

神原くんは至って冷静な子だな。こういう子は秘書に向いている。
それに比べて、部長は大量の汗をかいて、俺の前で焦るばかりで、なんの役にも立たない。
それに、彼女をほかの男に触らせるわけがなかろうが。
車に彼女を乗せて発進するまでも、やんややんやとあってやっと病院へ向かうことが出来た。
気持ちばかりがはやって、運転が荒くなってはいけないと、何とか冷静さを保つ。

「もうすぐ着くぞ。傷むか?」
「大丈夫です」

絶対に大丈夫じゃない。
俺が見たって顔をゆがめたくなるような傷だ。足首だって相当な腫れ具合で、よく電車通勤してきたよな。
その根性が泣かせるじゃないか。
駐車場に車を止めて、看護師と車いすを連れて持ってくる。
自ら乗ろうとする彼女を抱き上げ、車いすに乗せた。

「ずいぶん腫れてますね」

看護師が言った。そうだろう、そうだろう。目をそむけたくなる腫れ具合なんだ。
のんびり会話なんかしてないで、さっさと診察室に連れていきたい。

「転んでしまって」
「捻挫は長引きますし、後遺症もわりと残るんですよ。気を付けないと」
「はい」

後遺症だと? 
一大事じゃないか。
そんなことを宣告されたのに、にこやかに対応する彼女は女神だ。
診察室に通され、俺は待合で待つ。
レントゲンを撮ったり、処置したりと結構時間はかかった。
社長室を空けているので、何度か会社と連絡を取っていたりしていると、やっと診察が終わった彼女が出てきた。
膝は大きなガーゼをあてがわれ、足首はぐるぐる巻きの包帯で固定されていた。

「通院しなければならないか?」
「来週にもう一度診察に来るようにと言われました」
「暫くは安静だな」
「ただの捻挫です。移動業務は出来ませんが、それは秘書課でフォローしてくれると思います。本当に申し訳ございません」
「仕事はどうでもいい、身体が心配なだけだ」
「申し訳ござません」

ケガをして痛いのだろうに、何度も謝って可哀そうだ。

「社長、申し訳ございませんが、このまま帰宅したいと思いますがよろしいでしょうか? 業務に関しては部長にお願いして、秘書を割り振って頂きますので」
「そうしなさい」
「病院にまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました。では、わたくしはこれで」
「送って行こう」
「滅相もございません、ここからタクシーで帰りますので、社長はどうぞ社にお戻り下さい」
「一人で帰せるわけがないだろう」

いったい何を言い出すのかと思ったら、一人で帰るだと? 
ありえない。

「あの、大丈夫ですし、お会計もありますし」
「全て済ませたから心配しなくていい」

物凄く申し訳ない顔をしているが、余計なことをしてしまったのだろうか。
俺の女を扱う魔法は、効き目を無くして、使用方法も間違い始めている。
今まで付き合ってきた女には、喜びそうなことをしてやればそれでいいと、軽く扱ってきた。
だけど彼女に関しては臆病になって、どうしていいか分からないことも多く、やってやりたいことは沢山あるのに、いざ、それを実行に移すと彼女にとっては余計なことだったりする。

「はい、これ」
「すみません、何から何まで」

車に乗せミネラルウォーターを渡すと、申し訳なさそうに言った。
俺は彼女を抱いた。
それは告白してお互いの思いを確認したからで、こうして病院に連れてくるのも、送り届けるのも、彼女を思ってのこと。
しかし、この関係はなんだかやっぱりおかしい。
俺はまさかの、一夜限りの男だったのか?
俗に言う、ワンナイトラブか?
いや、彼女に限ってそんなことをするはずがない。
彼女はそんなことが出来る女じゃなく、それをしたら即、退職しているはずだ。
そうだ、退職。
いずれ彼女は退職していくことになると分かってはいたが、それは幸せな時期であって、今じゃない。
問題が解決しないままで退職なんかさせたくない。
寂しいじゃないか。
ご公務じゃないが、いつも一緒にいる女が突然いなくなるんだぞ。
考えただけでもゾッとする。
隣に座る彼女は、本当に痛々しい。
あ~マンションに連れて帰りたい。
朝から晩まで俺が介護して、回復を手助けしたい。
それなのに、車は彼女の住まいへと向かい、もう着いてしまった。

「送って頂いてありがとうございました。どうぞ、お気をつけてお帰り下さいませ」
「一人で歩いて行けるか?」
「出勤出来たんですから大丈夫です」
「……明日はラッシュを避けて出勤しなさい」
「お気遣い頂いて申し訳ございません」

ぎこちない動きで車を降りてマンションへ入って行く。
入って行くのを見届けて、会社に戻る。

「やっぱり寂しいな」

彼女がいないデスクを見る。
感傷に耽っている場合じゃなくて、やるべきことをしなくてはいけない。
まず、俺の運転手である斎藤さんの会社に電話をして、彼女の家に送迎の依頼をし、斎藤さんにも伝えた。

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