5時からヒロイン
「そうしなさい」
「病院にまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました。では、わたくしはこれで」
「送って行こう」
「滅相もございません、ここからタクシーで帰りますので、社長はどうぞ社にお戻り下さい」
「一人で帰せるわけがないだろう」

社長は私が有無を言う前に、私からバッグを奪い取り、抱き上げた。足には包帯が巻かれている状態で、抱っこされてもおかしくない状況だけど、それにしたって抱き上げられている者は、病院を見渡してもどこにもいない。

「あの、大丈夫ですし、お会計もありますし」
「全て済ませたから心配しなくていい」

そんなあ、治療費は社長が払うものじゃないでしょう? 立て替え分をなんて言って返したらいいのよ。
社長の性格を知り尽くしている私は、黙るしかない。素直に車に乗ると、社長はいつ買ったのか、ミネラルウォーターを渡してくれた。

「すみません、何から何まで」

社長は既に私の自宅を知っている。そう、ずる休みをしたとき来たから知っているのだ。車を運転する社長を横目で見ながらため息をつく。
いた……。忘れていた胃の痛みがきた。社長がいなければ、ついでに診察してもらったのに。バタバタして忘れていた胃の痛みが再発する。
社長のことを考えると出てくる痛みは、解決しないことがあるからだ。ペットボトルの蓋を開けて水を飲む。常温の水を買ってくれていたことに感謝だが、私の身体を流れて行く水は、常温でも胃に沁みたようで、そっと胃の辺りをおさえた。

「車に酔ったか?」
「あ、いえ、そうではありません。大丈夫です」

社長にばれないようにするのは大変だ。本当に心配をしているのか、頭に手を乗せた。たまらん、大事にされている彼女のようだ。車に酔ったんじゃなくて、あなたに酔ったのよとすり寄りたい気分。
小一時間のドライブが終わりに近づいている。視線のすぐ先には私の住むマンションが見える。離れがたさに涙が出そうだが、足の痛みでその欲求も、抑えることが出来た。
目の保養も終わり、車が止まった。

「送って頂いてありがとうございました。どうぞ、お気をつけてお帰り下さいませ」
「一人で歩いて行けるか?」
「出勤出来たんですから大丈夫です」
「……明日はラッシュを避けて出勤しなさい」
「お気遣い頂いて申し訳ございません」

湿布も効いて、包帯で固定されているからか、思ったより歩きやすい。バッグを肩にかけると、マンションのオートロックを開ける。中に入る前に振り向くと、社長に頭を下げてエントランスに入った。

「あ~疲れた」

身体をかばいながら歩くというのは、じつに疲れるものだ。捻挫をしていない方の足を揉む。

「あ~何もないんだった」

何もない冷蔵庫で、買い出しにも行けず、私は家で餓死をしてしまうのか。

「リュックを背負ったお兄さんに頼もう」

何も食べていない状態で、注文するのは危険だけど、外に出られないのだから仕方がない。今度はもしもの時のために、備蓄用食品は揃えていた方がよさそうだ。
温めて食べられるようなメニューから数品選び、注文してメイクを落とす。部屋着に着替え、テレビを点けパソコンを立ち上げる。検索したのは、転職サイトだった。

「自分のスキルねえ」

秘書検定に英検、パソコンのスキルもあるし、コミュニケーションスキルも申し分ないと思うが、検索しても秘書ばかりを探してしまって、転職する意味がない。思い切って転職するのだから、秘書以外の仕事をやってみたい。

「言うの早すぎたかな?」

気が付くのが遅すぎだ。普通は転職先を決めてから退職届を出すのに、私は退職を宣言してから転職先を探すという、極めて危険な行動をしている。

「いざとなったら失業給付金ね」

あの時、衝動的に言ってしまったことは確かだけど、実家に帰って、バイトをしても良いとさえ思いはじめている。
平日の昼間はのどかでいい。滅多に観ることが出来ない昼のワイドショーも楽しくて仕方がない。
日曜日は翌日の仕事に、行きたくなくなるとよく聞くけど、私はそんなことを思ったことはなかったが、今は本当に行きたくなくなっている。今まで思わなかったことを思うようになるなんて、年齢を重ねて色々なバランスが崩れ始めているせいなのかな。

「あ~年は取りたくない」

心配していた弥生からラインが入っていた。多くは報告せず、大丈夫だったとだけ返信する。
「一人でどれだけ食べるんだ」と、思われるような量のデリバリーを受け取り、昼寝までして図太く過ごした。


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