5時からヒロイン
「これから連休もあって、秋の園遊会もあるし、遊ぶにはいい季節になるんですよ? 仕事をしてたらダメですよ」

と、三井さん。彼女は取締役の秘書だけど、ヘルスケア事業部の課長と付き合っている。課長は研究所、所長の息子さん。いいところを捕まえた。もうすぐ海外支社の転勤も決まっていて、海外で暮らしてみたいという、彼女の夢が叶えられそうな予感。「玉の輿課」の面目は保たれそう。
本当にみんなしっかりしている。彼がいないのは、私と神原さんだけ。
その神原さんは お母さまと二人暮らしで、早くにお父さまを亡くされて、苦労してきた彼女だけど、最近お母さまが入院されたとかで、とても辛そうだ。指導している三井さんも、彼女が休みやすいようにと、仕事を割り振っているようで、今日は休んでいる。
私はソファに座って、手の空いている秘書に仕事を割り振っていた。一番上だという特権はここで発揮される。
朝のコーヒーを淹れて、新聞を運んでもらう。席が社長室前から秘書課に移っただけで、何も問題はない。
コーヒーの味も、緑茶の味も彼女たちに引きついでいってもらいたい。社長の好みを教えて行くのが、これから私の仕事になる。

「ねえ、今日のお昼何か取る?」

みんなと一緒にお昼を食べたいと思っていたけど、仕事に追われていつも一人だった。
ソファに座った女王は、このチャンスにみんなを誘った。

「いいですね、何食べます?」
「いっぱい取ろうよ。今日は私の奢り。今週はみんなに頼っちゃうから、ごはんで買収しちゃう」

お昼にはまだ時間があるのに、仕事そっちのけでメニューを広げる。なんて楽しいんだろう。

「のります、それ!」

みんな可愛い。

「水越君、僕も入れてくれよ」

部長だ。部長なんだから「よし、俺が奢るよ」と言ってもいいのに、それを言わないのが部長だ。でも部長も心配して、仕事を助けてくれたから仕方がない。

「油物はダメですよ。守ってくれるなら奢ります」
「和食にする」
「いい心構えです」

こんな些細な楽しみも忘れていたなんて。私は母親の言うことが今、やっとわかったような気がする。
昨日の夜、退職届を準備していた。パソコンで検索したテンプレートは、10行にも満たない簡単なものだった。
自分の勤めた期間と誇りは、たったの10行で終わってしまうのだ。

「でも、痛々しいですね、水越さんの膝小僧」
「でしょう?」

タイトスカートがいつものスタイルで、暫くパンツスタイルにしようと思ったけど、よくよく考えたら、休日に着るパンツしかなくて、仕事では着れないカジュアルな物ばかりだった。わざわざ買うのもバカらしくて、いつものスカートにしていた。

「かさぶたが取れるまでの我慢ですよ」
「うん」

社長と行動しているからか、秘書課にいる自分がちょっと浮いているような気がした。
でも、こうしてみると、なんて秘書課はのんびりしているのだろう。もしかして私だけが激務だったのかな? 残業代もそれなりに貰ってたけど、こんなにのんびりしているなら、こっちの方がよかった。働かない時間の方が多いから、時給計算にしたらかなり高いだろう。部長だってパソコン画面を一生懸命にみているけど、何を見てるんだか。

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