5時からヒロイン
金曜の夜ということもあって、美容院の前の大通りは賑やかだった。日が暮れて更に肌寒くなって、半袖姿の私は、腕に鳥肌がたった。

「これを」

それがすぐにわかったのか、社長はスーツのジャケットを脱いで肩に掛けてくれた。

「ありがとう」

腕を組んで歩き出すと、人の波が途切れ私達を見ている。

「どうしたのかな? 恥ずかしい」
「君が美しいからだ」
「社長が素敵だからですよ」

高身長の私たちが並んで歩くと、非常に目立つ。こんなところを社員に見られたりしないかと、冷や冷やするけど、今はこの幸せに浸っていたい。
人が途切れた道を横切って、エスコートされた車に乗り込む。たったこれだけのことなのに、優越感でいっぱいになる。

「行くよ」
「はい」

何処に行くのか分からないけれど、ドレッシーに決めさせてくれたということは、それなりのところに行くのだろう。
まだ私たちの間はぎくしゃくしたところもあるけど、新鮮だと思えばいいし、慣れてきた部分もある。あまり慣れて緊張感がなくなってしまうのも良くない。

「あ、海」
「クルージングに行こう」
「クルージング!?」

びっくりだ。長瀞のライン下りと、接待で乗った屋形船には乗ったことがあるけど、クルーザーなんてしゃれた船は乗ったことがない。
私の知る限り、ディナーなんか食べられたりするはずだ。

「もう着くよ」
「はい!」

東京湾に近づき、車の窓を開けると海の匂いがしてきた。

「海の匂いがする」

すーっと深呼吸をして空気を吸い込む。

「着いたぞ」
「はーい」

デートらしいデートは初めて。
社長にエスコートされてクルージングの受付を済ませると、私達が乗り込むクルーザーに向かう。
乗船場所には、船長らしき人が立っていて私達を迎えてくれた。
船内に乗り込む頃にはすっかり陽が落ちて夜空には星が出ている。周辺の灯りが波に反射して、海にも星があるようにキラキラと輝いている。

「すごく綺麗……」
「喜んでもらえたか?」
「もちろんです」
「良かった」

デッキに行くと、クルーザーはゆっくりと動き出した。

「乗っていられる時間は?」
「沙耶が好きなだけ」

貸切でしかも時間無制限なんて。

「さむっ……」

ワンピースは素敵だけど、我慢も限界で、海風も本当に気持ちがいいけど、ロマンチックな雰囲気も寒さには勝てない。

「あ……」

社長が私をバックハグしてくれた。なんて温かいのだろう。

「綺麗だな」
「うん」

クルーザーは工場群を横切っていた。無機質な鉄の塊の建物が、夜になるとこんなに幻想的な灯りを放つなんて知らなかった。

「あ、飛行機!」
「空港の近くを通っているんだな」

暗いけど、飛んでいるのは分かる。

「乗りたいなあ」

出張で度々利用するけれど、ビジネスより旅行で乗りたい。

「時間を作って旅行に行こう」
「嬉しい」

社長は私に知らない世界を見せてくれる。恋人になったからじゃなくて秘書のときからそうだった。
恋人になったからよけいにそのことが分かる。
見せてくれただけじゃなくて、気づかせてもくれたのは社長だ。

「いつも私に新しい世界を見せてくれる」
「知らない世界を知ることは重要で、経験はいつか宝になる。無駄だと思うことも挑戦していれば、必ず使える時がくる」
「うん」

好きなだけじゃなくて、尊敬できる社長を恋人に出来るなんて、宝くじで5億円当たるより難しい。

「お食事のご準備が整いました」

クルーが言った。

「ディナーだ」
「はい」

手を繋いで見つめ合いながら船内に入る。

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