蒼月の約束
第三十二話
そのころから兄は、東方にある町へとよく外出するようになっていた。
森で出くわす猛獣の毛皮が、町へ行くといくらかのお金になるということが分かったのだろう。
そしていつも上機嫌で、ヘルガの大好きな甘い飴も買ってきてくれるのだ。
夕飯の席で、目の前の卵料理をつつきながら少女は本の事が頭から離れなかった。
初めて使ったのが魔術であると良く分かっていた。
自分にもその能力が備わっていたことに驚きと嬉しさが隠せない。
他にどんな呪文があるのだろう。
自分に使えるのはどれだろう。
もっと試したい。
もっともっと…
「聞いてるか?」
顔を上げると、ダヨンは訝しげな顔を浮かべていた。
「ごめん。何の話?」
「いや、今日もまたいい値段で毛皮が売れてよ。これからもっといい物をお前に食わせてやれるって話だ。もうネズミや得体の知れない猛獣なんぞ食わなくていい。よかっただろう」
満足そうに卵をパンに乗せて食べている兄を見ると、罪悪感に苛(さいな)まれた。
魔術の本を見つけてしまったと正直に話すべきか。
躊躇ったが、今日一度使っただけだ。
悪いことは何もしていないし、何も起きていない。
兄に余計な心配をかけたくもない。
上機嫌な兄の機嫌をあえて損なわせることもないだろう。
ヘルガはそう思い直し、笑顔で相槌を打った。
少女の中に何か黒い何かが渦巻き始めているのを本人は自覚していなかった。
いつものように、決まって朝食を二人で摂ったあと、兄は少女の頭を撫で太陽のような笑顔を向けてから出発した。
その笑顔を見ながら、こっそりと魔術にいそしむのが心に刺さった。
ヘルガは兄の背が見えなくなるまで、見送ってからいつもの場所へとまた足を運んだ。
その日を皮切りに、少女はどんどんと自分の隠れていた才能と魔術へ夢中になっていた。
新しいことを覚えたての子供のように、何度も何度も同じことを練習し、術で相当の体力を使うのか疲れて果てて家に帰る日々を送っていた。