ここではないどこか

 ピンポーンと間の抜けた音が鳴る。重ねていた唇を離し、姉さんと顔を見合わせた。引っ越し当日の夜に訪ねてくる人なんてだいたい見当がつく。そういや、2人は昨日が引っ越しって言ってたな。「俺が出る」と立ち上がり姉さんの頭を撫でる。

「はい」

 インターホンパネルを確認せずに扉を開けたことに急な来客2人は目を丸くして驚いていた。予想通りの人物に「お疲れ」と挨拶をして家の中に招き入れた。

「俺らだってなんとなくわかってもちゃんと確認しろよ」
「わかった」

 俺の気のない返事に「ったく、お前は……」と呆れた声が返ってくる。開けっ放しにしていたリビングへ続く扉を通ると姉さんが笑顔で2人を迎えた。

「こんばんは。お久しぶりです」
「香澄さん、こんばんは」
「本当に久しぶりですね。引っ越しの手伝いできなくてすみません」
「いえいえ。仁さんも智宏くんも昨日引っ越しだったんですよね?荷解きまだ終わってないんじゃ……?」

 いたずらっ子のように笑う姉さんに仁くんと智宏が声を揃えて「そう!!」と答えた。「やっぱり」クスクスと他所行きの笑い方をする姉さんもそれはそれでかわいい。だけど、ダメだ。姉さんの全ては俺のものだと、まだ燃え尽きることのない嫉妬心が頭をもたげる。

"嫉妬心を表に出さない"

 未だに律儀に守っている約束を頭の中で繰り返した。

「瑞樹は明日に引っ越しだっけ?」

 姉さんが出したお茶を飲みながら智宏がぽつりと確認をするように言った。「そうそう」仁くんもお茶を飲みながら同意する。

「瑞樹さんって高校生……だよね?」

 姉さんの語尾が丁寧語かタメ口かでふらふらしているのが堪らなく面白かった。

「そうですよ」
「料理……できるのかな……」

 智宏の返答に姉さんが心配そうな声を出した。「大丈夫。瑞樹はなんでもできるから」姉さんは自分の心配をした方がいいと思うという言葉は飲み込んだ。この世には言わなくていいことの方が多いのだ。

「え……そうなんだ……うらやましい」
「香澄さんは苦手なの?料理」

 突然確信めいた質問を仁くんに投げかけられ姉さんの頬に熱が集まっていく。肩をすくめながら上目遣いに頷いた姉さんの破壊力ったら……。はいはい、嫉妬心も独占欲も表には出しません。俺は精一杯笑顔を貼り付けた。

「俺、料理得意だから。困ったらいつでも言ってくださいね」

 にこりと笑った仁くんも、「仁くん、ほんと上手だから。俺はあんま得意じゃないけど!」と照れ隠しに笑う智宏も、心なしか頬を赤らめている。

「そういえば、香澄さんって就職ですよね?」

 智宏に聞かれ、姉さんはこくんと頷いた。

「へぇ。あれ?じゃあ、俺の一つ上ですか?」
「そうです、そうです。仁さんは大学生……?」
「ですね。次4年です。デビューの年と被るんで忙しくなりそうですけど、卒業はできるかと」

 落ち着いたトーンで話す仁くんはなんだか聡明に見える。

「同じフロアどころか、部屋も隣だし、みんなで助け合いましょうね」
「だね!これからよろしくお願いします」
「うん、よろしくお願いします」

 爽やかな笑顔で仁くんが言って、智宏と姉さんがそれに応える。反応のない俺に向かって姉さんが「透も」と笑いかけた。

 想いが通じ合っても、大っぴらに言えない関係の俺たちは「付き合ってる」と牽制することもできない。いくらかっこいいと騒がれたって、優しい、謙虚だと褒められたって、それが姉さんを確実に繋ぎ止める鎖になるわけじゃない。
 足枷と手錠で好きな人を監禁する……それを行動に移す人の気持ちがわかってしまう自分を恐ろしく感じるのだ。

「よろしく」

 貼り付けた笑顔は醜い嫉妬でカラカラに乾ききっていた。ひび割れたところからどろどろと溢れ出てこないように、どうか口づけてほしいとひたすらに願っていた。
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