ここではないどこか

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「ねぇ、ほんとになにも持って行かなくていいの?」

 それはさっき俺が着替えているときに聞かれたことと同じ内容だった。「仁くんがいらないって言ってたんだから、いらないよ」さっきも言ったじゃん、とは言わずにこれまた同じことを繰り返して答えた。「そうだけど……」手ぶらで訪ねることに罪悪感がある姉さんは納得がいかないように眉間に皺を寄せた。
 悩んでる間に着いた仁くんの家のインターホンを鳴らすと「はい」とパネルから仁くんの声が聞こえた。さすが仁くん。メンバーの誰かだと確信を持ちながらもきちんとパネルで確認する。危機管理能力が違うな。と引っ越し当日に仁くんに注意されたことを思い返した。

「いらっしゃーい。智宏も瑞樹も来てるよ。香澄さん、突然呼び出しちゃってすみません」
「いえ、こちらこそ突然お邪魔しちゃってすみません。しかも手ぶらで……」

 まだ言ってるのかよ、と半ば呆れぎみに肩をすくめる。

「いやいや、俺がいらないって言ったから。さ、どうぞ」
「お邪魔します」

 きちんと靴を揃えて仁くんの家へ上がると、テレビの前にあるテーブルの上のオレンジジュースを飲みながら談笑している智宏と瑞樹が振り返った。

「透!香澄さんも!」
「お久しぶりです」
「誘ってくれてありがとう。改めてデビューおめでとうございます」

 姉さんがみんなの顔を見てにこりと目を細める。「ありがとう」と順番に応える3人に対して涙を堪えるように奥歯を噛み締めた姉さんをじっと見つめた。姉さんの感情の行き着く先はすべて涙だ。嬉しくても楽しくても、怒っても、感情が昂ると涙として溢れ出てくるのだ。姉さんを見ているとそれが女の武器だと言われてきた所以がよくわかる。
 庇護欲をくすぐられるのだ。その涙をこの手で拭って腕の中へ閉じ込めてしまいたくなる。姉さんの涙は本当に甘いのだ。俺しか知らないその事実に縋ってなんとか自制心を保った。
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