ここではないどこか
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早ければそろそろ透が帰って来る頃だろうか。時間を確認している私にお母さんが、「そういえば彼氏はできたの?」と聞いてきた。
学生のときにはこの手の話をした記憶がなかったため、驚きに固まったあと、冷や汗が背中を伝った。これは早めに切り上げた方がいい話だと瞬時に気づく。
「いないけど……というか、その話はお終い。そういうことは触れずにほっといて!」
少し怒りの感情を滲ませれば引いてくれるだろうと思っていた。しかし、私の思惑通りにはいかず、お母さんは優しく話しだした。それは昔、寝る前に絵本を読んでくれたときの声色。抱きつきながらお母さんの顔を見上げたときに目に入った、愛おしげな眼差し。今まで最大限に受け取ってきた無償の愛そのものだった。
「親はいつだって、いつまでだって子供のことが心配なのよ。彼氏がいなくても幸せです!人生楽しい!って顔してたらお母さんだって心配しないわよ」
ふ、と一呼吸置いて。「香澄の横顔がなんだか寂しそうで」とお母さんはさらに目尻を下げた。
肥大した罪悪感がにょきにょきと存在感を露わにする。これを私一人で耐えきれそうになくて、今すぐ透に縋りつきたかった。だけど透はまだ帰ってこない。"両親が死ぬまで隠し通すこと"今一度私の責務を思い返し、唇をきゅっと固く結んだ。
「彼氏がいなくても幸せ!人生たーのしー!」
「姉さん、何言ってんの?」
ここは明るくおちゃらけようと意を決し、大袈裟な声でお母さんの欲しい言葉をなぞり終えたときだった。本当は「もう、ほんとにあなたは……」と諦めにも似た笑顔をお母さんがくれるところだった。しかしどうだろう。私に与えられたのは、確実に引いている透の声だった。
これは引いている。所謂ドン引きというやつだ。苦虫を噛み潰したよう、としか形容できない表情をした透はため息を吐いた。
「久しぶり、母さん。待っててくれたの?」
「お疲れ、透。そうなのよ。会えてよかった。仕事はどう?順調?」
どうやら私はいないものとして話を進めていくみたいだ。はい、それならそれでいいです。なんなら話題が逸れたので助かりました。
楽しそうに笑い合う2人を見ても、嬉しくなるどころか、いつバレるだろうか、ボロは出ないだろうかとヒヤヒヤしている自分に少し嫌悪した。
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「透の顔も見れたし、そろそろ帰るわ」
お母さんがそう言いながら椅子から立ち上がった。
「あなた達が仲良くやっていけてるところを見て安心したわ」
心の底から嬉しそうな笑顔だ。再婚当時、私たちが良い関係を築いていけるかと心配していたお母さんが頭に浮かんだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。俺たち相性がいいみたい」
透の言葉選びにハラハラする。
「あっ!そういえば、さっきお母さんが美味しいって言ってたコーヒー持って帰ってよ!私も透もコーヒー飲まないから」
しんみりとした空気を切り裂くようにとびっきり明るい声を出した。
「ほんと?じゃあ、有り難くいただこうかしら」
語尾に音符がついていそうなほど、お母さんは喜んでくれた。
「待ってね。今取るから」
普段コーヒーを飲まないので、貰い物のコーヒーは踏み台を使わなければ取れない高いところにしまってある。
ここで私の無精な性格が本領発揮した。リビングに置いていない踏み台を取りに行くのが面倒で、ダイニングチェアを踏み台代わりにしようとしたのだ。もちろん今日のおやつの時に出したコーヒーもこうして取った。
「姉さん、それ危ないから俺が取るよ」
過保護な透は私の両肩に手を置き、私をダイニングチェアの正面からずらした。
「ごめん……ありがとう」
途端に自分の無精な性格が恥ずかしいやら、大切にされていることが嬉しいやらで顔に熱が集中するのを感じた。誤魔化すように髪の毛を耳にかけながら笑うと、透が「姉さん、耳まで真っ赤だ」と手を伸ばす。
あ、それはだめだ……咄嗟に避けた私に透が傷ついた目をしてみせた。でも今の行動はさすがに……心の中で「ごめん」と謝り、急いでお母さんの様子を確認する。私たちを見ながらニコニコと笑っているお母さんを見て、ほっと安心するところなのに、何故だか薄ら寒さを覚えた。
早ければそろそろ透が帰って来る頃だろうか。時間を確認している私にお母さんが、「そういえば彼氏はできたの?」と聞いてきた。
学生のときにはこの手の話をした記憶がなかったため、驚きに固まったあと、冷や汗が背中を伝った。これは早めに切り上げた方がいい話だと瞬時に気づく。
「いないけど……というか、その話はお終い。そういうことは触れずにほっといて!」
少し怒りの感情を滲ませれば引いてくれるだろうと思っていた。しかし、私の思惑通りにはいかず、お母さんは優しく話しだした。それは昔、寝る前に絵本を読んでくれたときの声色。抱きつきながらお母さんの顔を見上げたときに目に入った、愛おしげな眼差し。今まで最大限に受け取ってきた無償の愛そのものだった。
「親はいつだって、いつまでだって子供のことが心配なのよ。彼氏がいなくても幸せです!人生楽しい!って顔してたらお母さんだって心配しないわよ」
ふ、と一呼吸置いて。「香澄の横顔がなんだか寂しそうで」とお母さんはさらに目尻を下げた。
肥大した罪悪感がにょきにょきと存在感を露わにする。これを私一人で耐えきれそうになくて、今すぐ透に縋りつきたかった。だけど透はまだ帰ってこない。"両親が死ぬまで隠し通すこと"今一度私の責務を思い返し、唇をきゅっと固く結んだ。
「彼氏がいなくても幸せ!人生たーのしー!」
「姉さん、何言ってんの?」
ここは明るくおちゃらけようと意を決し、大袈裟な声でお母さんの欲しい言葉をなぞり終えたときだった。本当は「もう、ほんとにあなたは……」と諦めにも似た笑顔をお母さんがくれるところだった。しかしどうだろう。私に与えられたのは、確実に引いている透の声だった。
これは引いている。所謂ドン引きというやつだ。苦虫を噛み潰したよう、としか形容できない表情をした透はため息を吐いた。
「久しぶり、母さん。待っててくれたの?」
「お疲れ、透。そうなのよ。会えてよかった。仕事はどう?順調?」
どうやら私はいないものとして話を進めていくみたいだ。はい、それならそれでいいです。なんなら話題が逸れたので助かりました。
楽しそうに笑い合う2人を見ても、嬉しくなるどころか、いつバレるだろうか、ボロは出ないだろうかとヒヤヒヤしている自分に少し嫌悪した。
▼
「透の顔も見れたし、そろそろ帰るわ」
お母さんがそう言いながら椅子から立ち上がった。
「あなた達が仲良くやっていけてるところを見て安心したわ」
心の底から嬉しそうな笑顔だ。再婚当時、私たちが良い関係を築いていけるかと心配していたお母さんが頭に浮かんだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。俺たち相性がいいみたい」
透の言葉選びにハラハラする。
「あっ!そういえば、さっきお母さんが美味しいって言ってたコーヒー持って帰ってよ!私も透もコーヒー飲まないから」
しんみりとした空気を切り裂くようにとびっきり明るい声を出した。
「ほんと?じゃあ、有り難くいただこうかしら」
語尾に音符がついていそうなほど、お母さんは喜んでくれた。
「待ってね。今取るから」
普段コーヒーを飲まないので、貰い物のコーヒーは踏み台を使わなければ取れない高いところにしまってある。
ここで私の無精な性格が本領発揮した。リビングに置いていない踏み台を取りに行くのが面倒で、ダイニングチェアを踏み台代わりにしようとしたのだ。もちろん今日のおやつの時に出したコーヒーもこうして取った。
「姉さん、それ危ないから俺が取るよ」
過保護な透は私の両肩に手を置き、私をダイニングチェアの正面からずらした。
「ごめん……ありがとう」
途端に自分の無精な性格が恥ずかしいやら、大切にされていることが嬉しいやらで顔に熱が集中するのを感じた。誤魔化すように髪の毛を耳にかけながら笑うと、透が「姉さん、耳まで真っ赤だ」と手を伸ばす。
あ、それはだめだ……咄嗟に避けた私に透が傷ついた目をしてみせた。でも今の行動はさすがに……心の中で「ごめん」と謝り、急いでお母さんの様子を確認する。私たちを見ながらニコニコと笑っているお母さんを見て、ほっと安心するところなのに、何故だか薄ら寒さを覚えた。