ここではないどこか

8

 完全遮光のカーテンは朝になっても光を通さない。常夜灯の微かな明かりが、すぅすぅと寝息を立てている香澄の姿を視認できる程度に浮かび上がらせていた。
 いまだに信じられないのだ。俺の隣に香澄がいることに。夢から覚めたらいなくなってやしないだろうかと、香澄に触れてぬくもりを確かめた。
 頬にあてていた指を頭に滑らしやわやわと髪を撫でると、心地良さに頬を緩めた香澄はゆっくりと目を開けた。

「ごめん、起こした?」
「ううん、起きてた」
「恥ずかしいじゃん!言ってよ」

 2人で笑い合う。それがこんなにも眩しく輝かしいものだと、誰が理解してくれるだろうか。2人でいるときのみ息ができることを、誰が理解できるだろうか。きっと俺たち以外にはわからない。しかし、それでいいのだ。

「今日、買い出しに行ってくるね」

 一頻り笑ったあと、香澄が言った。

「ありがと。俺はマネージャーに電話するよ。あと、メンバーに連絡。今さらだけど……」

 会社にもメンバーにも、俺の活動を支えてくれたすべての人に心から感謝をしているのは紛れもない事実だ。ただこれはもう優先順位の問題であった。

「そうだね、電話番号を変更する前にね」

 香澄は俺の罪を許すように優しく微笑んだ。

 周りに随分と不義理なことをした自覚はある。その仄暗い罪悪感さえ赦してくれる香澄の眼差しは、出会った時から変わらず俺の全てであった。

「ねぇ、キスして」

 再び一緒にいようと誓った日から、香澄はこうしてよくキスをねだるようになった。
 形を確かめるような丁寧なキスも、感情を曝け出すような噛み付くようなキスも、セックスの前戯のような下唇を食むキスも、香澄はうわ言のように「もっと、」とねだった。
 離れていた時間をどうにか埋めようとしているのだろうか。その度にぴたりと重なりあった唇から溶けて、一つに混じり合う錯覚を起こした。

「そういえば、また唇舐めたでしょ、って怒らないの?」

 治らない癖を咎められていた頃の話を持ち出すと、香澄は「そんなこともあったね」と懐かしそうに目を細め、俺の唾液で濡れた唇がより一層魅力的に弧を描いた。

「私、好きなことに気づいたの、透のその癖」

 香澄がそう言ったその時から、俺の治したかった癖は特別なものに変わった。香澄が愛してくれた瞬間、俺の存在は神聖なものに変わったのだ。
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