ここではないどこか

 頭はもう充分冷えた。姉さんと顔を合わせたらさっきのことはなかったように振る舞おう。確か冷蔵庫にあったカルピスを勧めてみてもいいかもしれない。それを飲みながらくだらないバラエティでも観て、2人で笑って、それからおやすみを言おう。これで元通り。

 ソファの腕置きから見えるつま先を捉えたときにそんな予感はしていた。規則正しく上下する胸元を見て、そして幸せそうに閉じられた瞼を見て、感じたのは安心よりも落胆だった。1人悶々と悩んでいたのはどうやら俺だけで、姉さんにしてみれば俺のあの態度は正常な弟の範囲だったようだ。
 
 来年から一人暮らしをする。それを早々に決めた姉さんから聞いたとき、俺はやっと一筋の光を感じた。来年、予定通りにいけば俺たちもデビューをすることが決まっている。今とがらりと環境が変われば、誰にも赦されない、名前をつけることすら憚られるこの感情とやっと離れることができるかもしれない。
 そうなれば俺は地獄を感じずにすむ。永遠を誓う姉さんのそばで弟の顔をして笑っていられる。「姉弟仲良くしてね」と願った両親の希望を叶えてあげられる。やっと俺が住むこの世界が楽園になるんだ。

 あの時感じた光を俺は思い返していた。本当に?本当にそんな風にこの気持ちを消し去ることができるのだろうか。
 滑らかなまろい頬、乾燥してるよと咎めた艶やかな唇、愛おしげに動く指先、柔らかく下がる眦、絹のようなしなやかな髪。
 照れたときにする困った顔、怒り慣れていなくて泣いてしまうところ、泣くことを我慢したときにできる顎の皺。
 八方美人のくせに自分には厳しいところ、機嫌が悪いとアイスクリームをたくさん食べるところ、人の痛みに敏感なところ、そのくせ俺の気持ちになんて全く気付いてない鈍感なところ。
 姉さんを形作る全てが愛おしい。それを全て消し去れる?できることなら、髪の匂いを、抱きしめた体温を、囁く愛の言葉を知りたい。
 そこまで考えて、かぶりを振った。それこそ本当の地獄じゃないか。だけど、今この場で愛を囁くことは赦されるだろうか。俺は姉さんが寝ていることを再度確かめた。

 「あいしてる」

 自分の口からでたその言葉は冗談だと茶化せないほどに重く、また一歩俺を地獄へと近づけた。
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