ここではないどこか
3
翌日の朝も姉さんと顔を合わせることはなかった。俺が避けて朝早く家を出たこともあるが、そもそも大学生と高校生とじゃ生活時間も微妙にずれているので、いつも通りといえばいつも通りなのだが。
5月の朝はまだ少し肌寒い。本当は冬服の方がいいのだろうが、昼は暑いし、なにより合服期間にのみ着ける深緑のネクタイが好きなので移行期間が始まると同時に着替えることが常だった。
▼
「あれ、早いじゃん」
教室に入ってきたと同時に俺を見つけた智宏は驚いた顔をしながらそう言った。
「そんな変わんねぇだろ」
「んなことねぇよ。いつも俺のが早いじゃん」
「微々たる差だろ」と首を傾けた俺に智宏は「まぁな」と無邪気に笑った。
最近色気が出てきたよな、と事務所の人に評されることが多くなった智宏だが、大きな口で目がなくなるほど楽しそうに笑う顔は小学生の頃から変わっていない。進学だ就職だと将来の選択を迫られ、時にはもう大人だと背伸びをし、そう思えばまだ子供なんだからと責任転嫁をする。こう生きていこう、こうなろうと描いた将来像と比較して絶望しては、それでも自分ならと希望をかき集める。毎日もがきながら手探りで生きている俺にとって、ただ無邪気に、心の底からこの世界の全てを愛していた頃から変わらない智宏の笑顔は気を休めてくれるものだった。
自分の席に重そうな通学カバンを置き終えた智宏ともうすぐ発売されるゲームについて談笑をしていると、「おっはよー」と挨拶をされた。こいつは智宏と共に仲良くしている斎藤という友達で、些か軽薄なところもあるがそれを余りある愛嬌でカバーしている所謂"憎めない人"を地で行く奴である。
「おすー」
「はよ」
俺たちの挨拶はそもそも聞く気がなかったのだろう。半ば被せるように「めっちゃいいオカズをみつけた」とニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、軽くヒビが入ったスマホの画面を顔の横でチラつかせた。
「興味なーし」
斎藤が下ネタを話すときはかなりどぎつい内容だとわかっている俺は、用無しという意味を込めて手を振った。こんな爽やかな朝に、誰が聞いているかもわからない教室で話す内容じゃないだろ。
「はいはい。透くんはむっつりですもんねぇ」
俺がそう言うことはわかっていたのだろう、はなからお前には期待してねーよ、という風に斎藤は顎を上げた。腹が立つ顔だ。
「でも優しい智宏くんは俺の話し聞いてくれるよねぇ?」
「ずっるい言い方ぁ!」
智宏はまたあの笑顔を浮かべ、「仕方がないなぁ」と斎藤のスマホ画面を覗き込んだ。「そうこなくっちゃ」勝ち誇った顔を俺に見せた斎藤が声を弾ませた。
「あんま甘やかすなよ」
「聞こえませーん」
"お前に言ったんじゃねぇよ"と斎藤を睨みつけたが、当の本人はどこ吹く風で、智宏と頬を合わせて画面に集中していた。
動画は短いもので、見終わった智宏は「お前、ほんと趣味悪い」と斎藤の嗜好に拒否反応を示した。ふん、ざまぁないな。
しかしそんな反応も織り込み済みだったのだろう。自分の嗜好を拒絶されたにも関わらず斎藤は全く気にしていない様子だった。
「まぁね、ちょっと玄人向けの内容だから。おこちゃまな智宏くんにはわからないでしょう」
得意げに笑うな。俺は適当に「そうね」と返事をした。
「にしてもさ、斎藤の無理なジャンルってあるの?」
智宏が空気を変えようと努めて明るく聞くと、斎藤は顎に手を当てて大袈裟に唸った。しばしの沈黙の後、「あ、」と声を出す。どうやら閃いたようだ。
「近親相姦」
ぽとりと落とされたその言葉に時が止まった。
「え、意外!!割とメジャーなジャンルじゃない?」
「俺妹いるからかな……無理なんだよね」
「あぁ、2個下だっけ?同じ高校だよな。そっか……たしかに。俺は弟しかいないからなぁ」
2人の会話が遠くで聞こえる。そうか、そうだよな、それが正常なきょうだいの関係性だよな。この会話に入っていなくてよかったと思った。もし入っていたら、俺の化けの皮が剥がれていたかもしれない。
「でも、透みたいに再婚でできた姉ちゃんならありだよなぁ」
「おいっ、それは……」
斎藤の下品は物言いに智宏が止めに入った。
「ねぇよ」
苛立ちを抑えて笑顔まで添えた俺を褒めてほしい。「そんなもんか」と興味をなくした斎藤は先程俺たちが話していた発売間近のゲームへと話題を変えた。
5月の朝はまだ少し肌寒い。本当は冬服の方がいいのだろうが、昼は暑いし、なにより合服期間にのみ着ける深緑のネクタイが好きなので移行期間が始まると同時に着替えることが常だった。
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「あれ、早いじゃん」
教室に入ってきたと同時に俺を見つけた智宏は驚いた顔をしながらそう言った。
「そんな変わんねぇだろ」
「んなことねぇよ。いつも俺のが早いじゃん」
「微々たる差だろ」と首を傾けた俺に智宏は「まぁな」と無邪気に笑った。
最近色気が出てきたよな、と事務所の人に評されることが多くなった智宏だが、大きな口で目がなくなるほど楽しそうに笑う顔は小学生の頃から変わっていない。進学だ就職だと将来の選択を迫られ、時にはもう大人だと背伸びをし、そう思えばまだ子供なんだからと責任転嫁をする。こう生きていこう、こうなろうと描いた将来像と比較して絶望しては、それでも自分ならと希望をかき集める。毎日もがきながら手探りで生きている俺にとって、ただ無邪気に、心の底からこの世界の全てを愛していた頃から変わらない智宏の笑顔は気を休めてくれるものだった。
自分の席に重そうな通学カバンを置き終えた智宏ともうすぐ発売されるゲームについて談笑をしていると、「おっはよー」と挨拶をされた。こいつは智宏と共に仲良くしている斎藤という友達で、些か軽薄なところもあるがそれを余りある愛嬌でカバーしている所謂"憎めない人"を地で行く奴である。
「おすー」
「はよ」
俺たちの挨拶はそもそも聞く気がなかったのだろう。半ば被せるように「めっちゃいいオカズをみつけた」とニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、軽くヒビが入ったスマホの画面を顔の横でチラつかせた。
「興味なーし」
斎藤が下ネタを話すときはかなりどぎつい内容だとわかっている俺は、用無しという意味を込めて手を振った。こんな爽やかな朝に、誰が聞いているかもわからない教室で話す内容じゃないだろ。
「はいはい。透くんはむっつりですもんねぇ」
俺がそう言うことはわかっていたのだろう、はなからお前には期待してねーよ、という風に斎藤は顎を上げた。腹が立つ顔だ。
「でも優しい智宏くんは俺の話し聞いてくれるよねぇ?」
「ずっるい言い方ぁ!」
智宏はまたあの笑顔を浮かべ、「仕方がないなぁ」と斎藤のスマホ画面を覗き込んだ。「そうこなくっちゃ」勝ち誇った顔を俺に見せた斎藤が声を弾ませた。
「あんま甘やかすなよ」
「聞こえませーん」
"お前に言ったんじゃねぇよ"と斎藤を睨みつけたが、当の本人はどこ吹く風で、智宏と頬を合わせて画面に集中していた。
動画は短いもので、見終わった智宏は「お前、ほんと趣味悪い」と斎藤の嗜好に拒否反応を示した。ふん、ざまぁないな。
しかしそんな反応も織り込み済みだったのだろう。自分の嗜好を拒絶されたにも関わらず斎藤は全く気にしていない様子だった。
「まぁね、ちょっと玄人向けの内容だから。おこちゃまな智宏くんにはわからないでしょう」
得意げに笑うな。俺は適当に「そうね」と返事をした。
「にしてもさ、斎藤の無理なジャンルってあるの?」
智宏が空気を変えようと努めて明るく聞くと、斎藤は顎に手を当てて大袈裟に唸った。しばしの沈黙の後、「あ、」と声を出す。どうやら閃いたようだ。
「近親相姦」
ぽとりと落とされたその言葉に時が止まった。
「え、意外!!割とメジャーなジャンルじゃない?」
「俺妹いるからかな……無理なんだよね」
「あぁ、2個下だっけ?同じ高校だよな。そっか……たしかに。俺は弟しかいないからなぁ」
2人の会話が遠くで聞こえる。そうか、そうだよな、それが正常なきょうだいの関係性だよな。この会話に入っていなくてよかったと思った。もし入っていたら、俺の化けの皮が剥がれていたかもしれない。
「でも、透みたいに再婚でできた姉ちゃんならありだよなぁ」
「おいっ、それは……」
斎藤の下品は物言いに智宏が止めに入った。
「ねぇよ」
苛立ちを抑えて笑顔まで添えた俺を褒めてほしい。「そんなもんか」と興味をなくした斎藤は先程俺たちが話していた発売間近のゲームへと話題を変えた。