仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
01、夜を騒がせる仮面の令嬢
ダンスホール「エトランジェ」。
元は迎賓館として造られた建物は、一階に談話室やビリヤードルーム、三階は客室を備えており、紳士淑女の遊び場となっている。ここで毎夜開かれる仮面舞踏会に参加することは、ティタニア国の貴族にとって、今もっとも流行りの遊びだった。
顔を隠し、身分を偽り、かりそめの名前で一夜を謳歌する。
諸外国から入ってきたこの文化に、節操がないと顔をしかめる有識者はそれなりに多い。しかし、ホールの盛況ぶりからするに若者たちにとっては余計なお世話というものだろう。
貴族同士の結婚となれば、家同士の結びつきがもっとも重要視される世の中で、皆がロマンスに飢えているのだ。
名も知らぬ相手との一夜。
禁断の恋。
見初められた相手は身分違い。
物語のような非日常な出会いを求め、ままならない我が身に酔いしれる。
「……僕と踊って頂けますか、レディ?」
羽根つきのマスケラをつけた男性が声をかけると、ペールピンクのドレスを着た少女はにこりと微笑んだ。
もっとも、顔の半分はスミレの花を模した奇抜な仮面で覆われており、男性からはその花のつぼみのような可憐な唇が上向いたことしか確認が出来ない。
「ええ、喜んで」
そう言って差し出された手を、男性はスマートな手つきで――いや、震える手で握る。ぎこちないエスコートに、少女は優しく笑った。
「ふふっ。緊張していらっしゃるの?」
「え、ええ。まさかあなたにOKして頂けるとは思わなかったもので……お恥ずかしい」
「まあ、わたし、そんなにお高くとまっているように見える?」
少女は冗談混じりにクスクスと笑う。笑顔を見て、男性はほっとしてしまった。
「ここへははじめて?」と聞く少女に、男性は正直に二度目だと答える。
一度目は物凄く年配のレディに声をかけられ、怖くて断れず三曲も踊った。そんな話をすればころころと笑い、じゃあ上手なあしらい方を教えてあげると悪戯っぽく笑われる。
男性は普段は真面目な貴族の青年で、女性が好みそうな話というのも何をすればいいかわからないと悩むたちだ。しかし、会話上手な彼女のおかげで男性の緊張はみるみるうちにほぐれていった。婚約者とだってこんなに和やかに会話したこともない。
やがて曲が終わると、少女は「楽しかったわ。ありがとう」と微笑んで離れていく。良かったらもう一曲……と言い出せぬまま、少女はあっという間に別の男性から声をかけられてしまった。
伸ばした手が空を切ると、周囲にいた男たちからニヤニヤ笑いで肩に手を置かれる。
「ああ、残念だったな兄ちゃん」
「いや、俺なんて毎夜来てるけどまだ彼女と踊ったことないぞ。ラッキーだったな」
「今日こそ、彼女を射止める男はあらわれるのかね」
仮面をつけていても、社交界に出入りしている人間であれば――そして知り合い同士なら、ある程度どこの誰かというのは見当がつくものだ。美しい社交界の華であるなら尚更男たちの話題に上らないわけがない。
優雅な身のこなしと気の利いた会話。身につけているドレスも宝飾品も一級品。……おそらくはかなり身分の高い令嬢であると思われるのに、誰もその正体を知らない。
身持ちが固く、ダンスはすれど唇は許さない。難攻不落のスミレ色の仮面の乙女。
誰が付けたのか、彼女はレディ・バイオレットの愛称で呼ばれている。
一体、誰が彼女の心を射止めるのか――一夜の恋愛ゲームを楽しむ男たちによって、それは楽しい賭けの対象でもあった。
◇◇◇
「これがマリーゴールド。こっちがアネモネ。こっちはサワハコベ」
亜麻色の髪をお下げにした少女が指差す花に、姉妹は「葉っぱの説明はいらないってば」と可笑しそうに笑った。
揃いのドレスに艶やかな髪。ふっくら丸いほっぺたの十二歳と八歳の姉妹を前に、リコリスは真面目な顔でつぼみを指差した。
「葉っぱじゃないわ。ほら、ここが白くなって花が咲くのよ」
「葉っぱにしか見えなーい」
リコリスの説明に、姉妹はきゃらきゃらと笑い声をあげる。
伯爵家令嬢の彼女たちにとって、花というのは花壇に咲いているものなのだ。そこからはみ出たところにある野花なんて、雑草と大して変わりないのだろう。
「もう! 花の名前を教えて欲しいなんて、勉強をサボる口実でしょ? さあ、息抜きはおしまい。戻って詩の朗読の続きをしましょう」
「あーん、うそうそ。そんなことないよぉ」
「そうそう。あっちの葉っぱはなあに? 教えて、リコリス先生」
調子いいんだから、とリコリスは腰に手を当てる。「花の名前を教えて欲しい」とリコリスに言えば、しばしの間、教本から離れられることを知っているからだ。
――わたしの名前はリコリス・ワイアット。
スペンサー伯爵家のお嬢さまの家庭教師をしている、中流階級出の娘だ。
リコリスの父は大学で植物学の教師をしており、大学に通う貴族との繋がりも多い。父の妹である叔母も、父の学友だったという男爵家へと嫁いでいった。
リコリスが伯爵家に勤めることになったのもこの叔母の紹介があってのことだ。別に働かなくてはいけないほど貧しいわけではないのだが、教師の仕事に魅力を感じて引き受けた。侍女や家庭教師の仕事ならば、それなりの教養のある女性が雇われるため、リコリスにとっても悪い話ではない。
詩や文学を教えながら、息抜きに草花の知識も教えたところ、生徒である二人のお嬢さま――十二歳のチェルシーと八歳のターニャには好評だった。……サボりの口実としてだが、なんだかんだで懐いてくれていると思う。
勤め始めて半年。
伯爵も夫人もリコリスを可愛がってくださるし、スペンサー家の住人は、中流階級出の家庭教師のことを好意的に迎え入れてくれていた。――ただ一人を除いては。
元は迎賓館として造られた建物は、一階に談話室やビリヤードルーム、三階は客室を備えており、紳士淑女の遊び場となっている。ここで毎夜開かれる仮面舞踏会に参加することは、ティタニア国の貴族にとって、今もっとも流行りの遊びだった。
顔を隠し、身分を偽り、かりそめの名前で一夜を謳歌する。
諸外国から入ってきたこの文化に、節操がないと顔をしかめる有識者はそれなりに多い。しかし、ホールの盛況ぶりからするに若者たちにとっては余計なお世話というものだろう。
貴族同士の結婚となれば、家同士の結びつきがもっとも重要視される世の中で、皆がロマンスに飢えているのだ。
名も知らぬ相手との一夜。
禁断の恋。
見初められた相手は身分違い。
物語のような非日常な出会いを求め、ままならない我が身に酔いしれる。
「……僕と踊って頂けますか、レディ?」
羽根つきのマスケラをつけた男性が声をかけると、ペールピンクのドレスを着た少女はにこりと微笑んだ。
もっとも、顔の半分はスミレの花を模した奇抜な仮面で覆われており、男性からはその花のつぼみのような可憐な唇が上向いたことしか確認が出来ない。
「ええ、喜んで」
そう言って差し出された手を、男性はスマートな手つきで――いや、震える手で握る。ぎこちないエスコートに、少女は優しく笑った。
「ふふっ。緊張していらっしゃるの?」
「え、ええ。まさかあなたにOKして頂けるとは思わなかったもので……お恥ずかしい」
「まあ、わたし、そんなにお高くとまっているように見える?」
少女は冗談混じりにクスクスと笑う。笑顔を見て、男性はほっとしてしまった。
「ここへははじめて?」と聞く少女に、男性は正直に二度目だと答える。
一度目は物凄く年配のレディに声をかけられ、怖くて断れず三曲も踊った。そんな話をすればころころと笑い、じゃあ上手なあしらい方を教えてあげると悪戯っぽく笑われる。
男性は普段は真面目な貴族の青年で、女性が好みそうな話というのも何をすればいいかわからないと悩むたちだ。しかし、会話上手な彼女のおかげで男性の緊張はみるみるうちにほぐれていった。婚約者とだってこんなに和やかに会話したこともない。
やがて曲が終わると、少女は「楽しかったわ。ありがとう」と微笑んで離れていく。良かったらもう一曲……と言い出せぬまま、少女はあっという間に別の男性から声をかけられてしまった。
伸ばした手が空を切ると、周囲にいた男たちからニヤニヤ笑いで肩に手を置かれる。
「ああ、残念だったな兄ちゃん」
「いや、俺なんて毎夜来てるけどまだ彼女と踊ったことないぞ。ラッキーだったな」
「今日こそ、彼女を射止める男はあらわれるのかね」
仮面をつけていても、社交界に出入りしている人間であれば――そして知り合い同士なら、ある程度どこの誰かというのは見当がつくものだ。美しい社交界の華であるなら尚更男たちの話題に上らないわけがない。
優雅な身のこなしと気の利いた会話。身につけているドレスも宝飾品も一級品。……おそらくはかなり身分の高い令嬢であると思われるのに、誰もその正体を知らない。
身持ちが固く、ダンスはすれど唇は許さない。難攻不落のスミレ色の仮面の乙女。
誰が付けたのか、彼女はレディ・バイオレットの愛称で呼ばれている。
一体、誰が彼女の心を射止めるのか――一夜の恋愛ゲームを楽しむ男たちによって、それは楽しい賭けの対象でもあった。
◇◇◇
「これがマリーゴールド。こっちがアネモネ。こっちはサワハコベ」
亜麻色の髪をお下げにした少女が指差す花に、姉妹は「葉っぱの説明はいらないってば」と可笑しそうに笑った。
揃いのドレスに艶やかな髪。ふっくら丸いほっぺたの十二歳と八歳の姉妹を前に、リコリスは真面目な顔でつぼみを指差した。
「葉っぱじゃないわ。ほら、ここが白くなって花が咲くのよ」
「葉っぱにしか見えなーい」
リコリスの説明に、姉妹はきゃらきゃらと笑い声をあげる。
伯爵家令嬢の彼女たちにとって、花というのは花壇に咲いているものなのだ。そこからはみ出たところにある野花なんて、雑草と大して変わりないのだろう。
「もう! 花の名前を教えて欲しいなんて、勉強をサボる口実でしょ? さあ、息抜きはおしまい。戻って詩の朗読の続きをしましょう」
「あーん、うそうそ。そんなことないよぉ」
「そうそう。あっちの葉っぱはなあに? 教えて、リコリス先生」
調子いいんだから、とリコリスは腰に手を当てる。「花の名前を教えて欲しい」とリコリスに言えば、しばしの間、教本から離れられることを知っているからだ。
――わたしの名前はリコリス・ワイアット。
スペンサー伯爵家のお嬢さまの家庭教師をしている、中流階級出の娘だ。
リコリスの父は大学で植物学の教師をしており、大学に通う貴族との繋がりも多い。父の妹である叔母も、父の学友だったという男爵家へと嫁いでいった。
リコリスが伯爵家に勤めることになったのもこの叔母の紹介があってのことだ。別に働かなくてはいけないほど貧しいわけではないのだが、教師の仕事に魅力を感じて引き受けた。侍女や家庭教師の仕事ならば、それなりの教養のある女性が雇われるため、リコリスにとっても悪い話ではない。
詩や文学を教えながら、息抜きに草花の知識も教えたところ、生徒である二人のお嬢さま――十二歳のチェルシーと八歳のターニャには好評だった。……サボりの口実としてだが、なんだかんだで懐いてくれていると思う。
勤め始めて半年。
伯爵も夫人もリコリスを可愛がってくださるし、スペンサー家の住人は、中流階級出の家庭教師のことを好意的に迎え入れてくれていた。――ただ一人を除いては。
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