仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
11、危機
◇◇◇
(そろそろ、オーランド様の熱も冷めたかしら……)
オーランドは数日間エトランジェに通い続けたらしいが、バイオレットと会えない日が続き、この三日ほどは顔を出していないらしい。ロクサーヌを経由した支配人からの情報だ。
あまり顔を出さない日が続き、またバイオレットの偽物が現れたら面倒だ。
うきうきとリコリスの身支度を整えたメイドたちに「進展があったらぜひ教えてくださいませ」と送り出されてげんなりする。他人事だと思ってなんて気楽な……。いや、実際彼女たちにとっては他人事である。自分が絡まない色恋の話であればリコリスも楽しく参加できたかもしれないし、これまでも自分に声を掛けてきた相手の噂話に興じてきた。
オーランドのことだって早く笑い話にしてしまいたい。
一時の気の迷いみたいなもので、いつまでも靡かない女はつまらないのよ。やっぱり、ただの遊び人ねと貶められたらどれだけ気楽なことだろう。
エトランジェに行ったリコリスは、オーランドが来ていないことを確認してほっと息をついた。
そしていつもどおりの役割をこなしていく。オーランド目当ての女性客が増えた時期もあったが、それももう落ち着いた。ここにいるのはほとんどが常連客……。見知った仮面に見知ったドレス。そこへ、道化師が現れた。
見たことのない客だ。
すべての客を把握しているわけではないが、この仮面ははじめて見る。
泣き顔と笑い顔を模した道化師の仮面の男。口元はまだ若く、リコリスよりいくつか年上だろう。赤毛の髪で、背もすらりと高い。
道化師はおどけたような仰々しい態度でリコリスに手を差し出した。
「良ければ踊っていただけませんか?」
「もちろん、喜んで」
リコリスは微笑み、その手をとった。
……誰だろう。直接正体を詮索するのはご法度だが、ついつい身分を探ろうとしてしまう。
「噂に名高いバイオレット嬢と踊れるなんて感激です」
「まあ、どうもありがとう。こちらこそ、わたしを選んでくださって光栄ですわ」
道化師も同じように、「謎の令嬢」の正体は誰なんだろうと、自分の知人をリストアップしていそうな顔だった。
バイオレットの正体を噂されるようになってからはよくあることだ。
正体を探りたいらしい相手から、かまをかけるような質問をされたことも何度もある。
「ここ数日は体調を崩されていたのですか?」
「あら。もしかしてすれ違ってしまっていたかしら」
「ええ。あなたに会いたくてエトランジェにきていたのですが、お会いできずに残念でした。もし今日も振られていたら、きっとショックで寝込んでいたことでしょう。恋の女神はどうやら僕のことが嫌いらしい、とね」
「大げさだわ」
くすくす笑うと「踊りましょう」と誘導された。
それなりの身分の人間なのか、リードも上手い。
変に下心も見せず、バイオレットにのぼせ上ったりもせず、冗談めかしたやりとりで女性の心を掴むのもうまかった。
オーランドがモテる理由が「顔」「俺様で強引な態度」なら、道化師はきちんと正攻法で口説くタイプである。
オーランドのことを考えてしまったせいだろうか。
「不思議な方ですね。社交界きっての色男でも落とせないあなたが一体どこの誰なのか……。踊ってみれば見当がつくかと思ったんですがまるでわからないな」
道化師にオーランドの話題を出されてぎくりとしてしまった。
というか、そんな噂にでもなっているのだろうか。
オーランドの姿を頭から追い払い、リコリスはシニカルな笑みを浮かべてみせる。
「女性は化けるものですもの。お化粧一つでも随分と印象が変わるものでしょう?」
本当に気にかけている相手なら、ささやかな外見の変化には惑わされない。
声や、性格、話し方。手がかりはいくらでもあるのだから。
「……ということは、案外俺の身近な女性が大変身している可能性もあると言うことですか?」
「うふふ。そうかもしれませんね」
身近な女性が化けていても気が付かない人もいるが――
そんなことを考えていたら、銀の仮面をつけたオーランドがホールに現れた。
彼は真っ先にバイオレットを探し、そして一緒に踊っていた赤毛の男を見て驚いたようだった。
仮面をつけているのに、リコリスにはオーランドの表情がわかってしまう。彼はこちらに向かってずんすん歩いてきた。
「ああ、見つかっちゃった」
「え?」
ちょうどダンスが終わり、道化師の男は「それじゃあ」と微笑む。リコリスから離れたと思ったら、片手をあげてオーランドと合流した。その親しげな態度を見て、リコリスは身体を強ばらせる。
(オーランド様の知り合いだったの?)
まさか、友人を使ってバイオレットの正体を暴こうとしているのではないか。
ヒヤリとしたが、オーランドの方はなぜか道化師に対して怒っているようだった。オーランドが夢中になっているバイオレットにちょっと声をかけてみました、といった雰囲気の道化師の態度に悪びれたところはない。オーランドが頼んでバイオレットの正体を探らせていたわけではなさそうだということはわかったが……。
(……今のところ、わたしの正体を無理に暴くつもりはないのかもしれないけど……)
オーランドとも、オーランドの知人とも関わり合うのは危険だ。
リコリスはぷいと踵を返し、その場を離れた。このままここに一人でいたら、オーランドに声を掛けられてしまう。
(帰ろうかしら……)
会って、どういう態度を取ればいいのかわからない。
オーランドに声を掛けられる自分を想像してみる。
「誠実な男性になるというお話はどうしたの」
――バイオレットらしくツンと澄まして言う。
「関係を持っていた女性とはすべて別れました。これで、貴女一筋だと言う証明にはなりませんか」
――オーランドは得意げに言ってくるかもしれない。
……バイオレットはなんて返したらいいのか。
「そこまでおっしゃるなら」と泰然とした態度で受け入れる?
「信じません」と突っぱね続ける?
どうやってあしらうべきか定まらず、態度がぶれてぼろが出てしまいそうだ。
……ああ、もう。どうしてこんなことで悩まないといけないのだろう。ダンスをして、思わせぶりな態度で煙に巻いてきたバイオレット流の駆け引きはオーランドにはまるで通用しない。
ドレスを捌いてホールを抜け、吹き抜けになっている階段を降りようと手すりを掴む。
その瞬間、
「きゃ……!」
ドン、と背中に強い衝撃を感じた。
咄嗟に手すりを掴む。どうにか踏みとどまったものの、危うく階段を転げ落ちるところだった。
激しく鳴る鼓動のまま振り返ったが、そこにはもう誰もいない。
(気のせい? ううん、確かに今、誰かが……)
リコリスを突き飛ばした。
誰かの悪意にぞっと身を震わせていると、ホールを抜けてオーランドが走ってくる。
「バイオレット、もう帰ってしまったのかと……」
青い顔のリコリスを見て、オーランドは顔色を変えた。
「どうかしましたか? どこか具合でも?」
「っ、へ、平気です……」
「平気ではないでしょう。震えている」
医務室へ、と言われ、リコリスは首を振った。体調が悪いわけではない。しかし、平然と気持ちを立て直せるほどの余裕はなかった。
「……今、誰かに後ろから突き飛ばされて……」
オーランドは表情を引き締めると、周囲に視線を走らせた。こんな時、仮面を被った人間ばかりでは誰が誰だかわからない。
「怪我は?」
「あ、ありません」
「……こちらへ」
オーランドはリコリスの手を引くと一階へと降りた。
(そろそろ、オーランド様の熱も冷めたかしら……)
オーランドは数日間エトランジェに通い続けたらしいが、バイオレットと会えない日が続き、この三日ほどは顔を出していないらしい。ロクサーヌを経由した支配人からの情報だ。
あまり顔を出さない日が続き、またバイオレットの偽物が現れたら面倒だ。
うきうきとリコリスの身支度を整えたメイドたちに「進展があったらぜひ教えてくださいませ」と送り出されてげんなりする。他人事だと思ってなんて気楽な……。いや、実際彼女たちにとっては他人事である。自分が絡まない色恋の話であればリコリスも楽しく参加できたかもしれないし、これまでも自分に声を掛けてきた相手の噂話に興じてきた。
オーランドのことだって早く笑い話にしてしまいたい。
一時の気の迷いみたいなもので、いつまでも靡かない女はつまらないのよ。やっぱり、ただの遊び人ねと貶められたらどれだけ気楽なことだろう。
エトランジェに行ったリコリスは、オーランドが来ていないことを確認してほっと息をついた。
そしていつもどおりの役割をこなしていく。オーランド目当ての女性客が増えた時期もあったが、それももう落ち着いた。ここにいるのはほとんどが常連客……。見知った仮面に見知ったドレス。そこへ、道化師が現れた。
見たことのない客だ。
すべての客を把握しているわけではないが、この仮面ははじめて見る。
泣き顔と笑い顔を模した道化師の仮面の男。口元はまだ若く、リコリスよりいくつか年上だろう。赤毛の髪で、背もすらりと高い。
道化師はおどけたような仰々しい態度でリコリスに手を差し出した。
「良ければ踊っていただけませんか?」
「もちろん、喜んで」
リコリスは微笑み、その手をとった。
……誰だろう。直接正体を詮索するのはご法度だが、ついつい身分を探ろうとしてしまう。
「噂に名高いバイオレット嬢と踊れるなんて感激です」
「まあ、どうもありがとう。こちらこそ、わたしを選んでくださって光栄ですわ」
道化師も同じように、「謎の令嬢」の正体は誰なんだろうと、自分の知人をリストアップしていそうな顔だった。
バイオレットの正体を噂されるようになってからはよくあることだ。
正体を探りたいらしい相手から、かまをかけるような質問をされたことも何度もある。
「ここ数日は体調を崩されていたのですか?」
「あら。もしかしてすれ違ってしまっていたかしら」
「ええ。あなたに会いたくてエトランジェにきていたのですが、お会いできずに残念でした。もし今日も振られていたら、きっとショックで寝込んでいたことでしょう。恋の女神はどうやら僕のことが嫌いらしい、とね」
「大げさだわ」
くすくす笑うと「踊りましょう」と誘導された。
それなりの身分の人間なのか、リードも上手い。
変に下心も見せず、バイオレットにのぼせ上ったりもせず、冗談めかしたやりとりで女性の心を掴むのもうまかった。
オーランドがモテる理由が「顔」「俺様で強引な態度」なら、道化師はきちんと正攻法で口説くタイプである。
オーランドのことを考えてしまったせいだろうか。
「不思議な方ですね。社交界きっての色男でも落とせないあなたが一体どこの誰なのか……。踊ってみれば見当がつくかと思ったんですがまるでわからないな」
道化師にオーランドの話題を出されてぎくりとしてしまった。
というか、そんな噂にでもなっているのだろうか。
オーランドの姿を頭から追い払い、リコリスはシニカルな笑みを浮かべてみせる。
「女性は化けるものですもの。お化粧一つでも随分と印象が変わるものでしょう?」
本当に気にかけている相手なら、ささやかな外見の変化には惑わされない。
声や、性格、話し方。手がかりはいくらでもあるのだから。
「……ということは、案外俺の身近な女性が大変身している可能性もあると言うことですか?」
「うふふ。そうかもしれませんね」
身近な女性が化けていても気が付かない人もいるが――
そんなことを考えていたら、銀の仮面をつけたオーランドがホールに現れた。
彼は真っ先にバイオレットを探し、そして一緒に踊っていた赤毛の男を見て驚いたようだった。
仮面をつけているのに、リコリスにはオーランドの表情がわかってしまう。彼はこちらに向かってずんすん歩いてきた。
「ああ、見つかっちゃった」
「え?」
ちょうどダンスが終わり、道化師の男は「それじゃあ」と微笑む。リコリスから離れたと思ったら、片手をあげてオーランドと合流した。その親しげな態度を見て、リコリスは身体を強ばらせる。
(オーランド様の知り合いだったの?)
まさか、友人を使ってバイオレットの正体を暴こうとしているのではないか。
ヒヤリとしたが、オーランドの方はなぜか道化師に対して怒っているようだった。オーランドが夢中になっているバイオレットにちょっと声をかけてみました、といった雰囲気の道化師の態度に悪びれたところはない。オーランドが頼んでバイオレットの正体を探らせていたわけではなさそうだということはわかったが……。
(……今のところ、わたしの正体を無理に暴くつもりはないのかもしれないけど……)
オーランドとも、オーランドの知人とも関わり合うのは危険だ。
リコリスはぷいと踵を返し、その場を離れた。このままここに一人でいたら、オーランドに声を掛けられてしまう。
(帰ろうかしら……)
会って、どういう態度を取ればいいのかわからない。
オーランドに声を掛けられる自分を想像してみる。
「誠実な男性になるというお話はどうしたの」
――バイオレットらしくツンと澄まして言う。
「関係を持っていた女性とはすべて別れました。これで、貴女一筋だと言う証明にはなりませんか」
――オーランドは得意げに言ってくるかもしれない。
……バイオレットはなんて返したらいいのか。
「そこまでおっしゃるなら」と泰然とした態度で受け入れる?
「信じません」と突っぱね続ける?
どうやってあしらうべきか定まらず、態度がぶれてぼろが出てしまいそうだ。
……ああ、もう。どうしてこんなことで悩まないといけないのだろう。ダンスをして、思わせぶりな態度で煙に巻いてきたバイオレット流の駆け引きはオーランドにはまるで通用しない。
ドレスを捌いてホールを抜け、吹き抜けになっている階段を降りようと手すりを掴む。
その瞬間、
「きゃ……!」
ドン、と背中に強い衝撃を感じた。
咄嗟に手すりを掴む。どうにか踏みとどまったものの、危うく階段を転げ落ちるところだった。
激しく鳴る鼓動のまま振り返ったが、そこにはもう誰もいない。
(気のせい? ううん、確かに今、誰かが……)
リコリスを突き飛ばした。
誰かの悪意にぞっと身を震わせていると、ホールを抜けてオーランドが走ってくる。
「バイオレット、もう帰ってしまったのかと……」
青い顔のリコリスを見て、オーランドは顔色を変えた。
「どうかしましたか? どこか具合でも?」
「っ、へ、平気です……」
「平気ではないでしょう。震えている」
医務室へ、と言われ、リコリスは首を振った。体調が悪いわけではない。しかし、平然と気持ちを立て直せるほどの余裕はなかった。
「……今、誰かに後ろから突き飛ばされて……」
オーランドは表情を引き締めると、周囲に視線を走らせた。こんな時、仮面を被った人間ばかりでは誰が誰だかわからない。
「怪我は?」
「あ、ありません」
「……こちらへ」
オーランドはリコリスの手を引くと一階へと降りた。