仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
17、接触

 ◇

 リコリスがエトランジェへ行かなくなってから、男爵邸は火が消えたように静かだった。
 バイオレット用のドレスを仕立てることもなくなったし、新しい髪型を練習させてくださいとメイドが頼みに来ることもない。

 リコリスを気遣い、何気ない日常を送れるようにと気を砕いてくれていた。

 朝食の後、リコリスはロクサーヌの元へと顔を出す。

 ロクサーヌは窓辺でレースを編んでいた。メイドたちと少女のように騒いでいた人と同一人物とは思えないほどに憂いた表情で、レースを編む手も止まってしまっている。

 リコリスはなるべく明るい声を作って「叔母さま」と声を掛けた。

「あら、リコリス。どうしたの?」
「話があるのだけれど……、今、いいかしら?」
「もちろんよ。お茶を……ああ、すっかり冷めてしまっているわね」

 メイドを呼んだロクサーヌはリコリスのためのお茶を用意してくれた。

 あの事件以降、リコリスよりもロクサーヌの方が気落ちしてしまっている。リコリスはなるべく明るい声を出すようにつとめた。

「あ、あのね、叔母さまの伝手で、わたしに見合ったようなご縁って、見つからないものかしら」

 突然の話にロクサーヌは目をぱちくりさせる。

「リコリス……。あなた、どうしちゃったの?」
「ん。そろそろ父さまのことも安心させてあげたいし、真剣に嫁ぎ先を考えなくちゃ……って。叔母さまのことを頼ってばかりで申し訳ないけれど、良いお話があったら教えてもらえないかと思って」
「それは構わないけれど……。そうしたら、家庭教師のお仕事は辞めることになるわよ」
「うん。せっかく叔母さまが紹介して下さったのに、ごめんなさい」

 頭をさげるリコリスに、ロクサーヌは悲しそうに眉を下げた。
 家庭教師の仕事は楽しいと話していたし、リコリスも自分に向いた仕事だと思っていた。

 だけど、オーランドはリコリスの顔も見たくないに違いない。

 出て行けと言われないからと言って、のうのうと屋敷をうろちょろしていたら目障りだろう。リコリスは家庭教師の職を辞するつもりでいた。

 昼は可愛いお嬢様たちと過ごし、夜は綺麗なドレスを着て駆け引きをするスリリングな生活は、楽しかった。
 楽しい、二重生活だった。

「ごめんね、リコリス」
「どうして叔母さまが謝るの? 叔母さまは悪くないわ」
「だって、私が盛り上がってしまって、バイオレットを続けさせたせいで……。本当にごめんなさい」
「ううん、わたしも貴族たちを騙して楽しんでいたもの。ふふっ、悪い男をいっぱい見て勉強になったわ」

 明るく笑ってみせても、ロクサーヌの表情は悲しそうなままだ。

「縁談は……、そんなに急がないでしょう?」
「ええ」
「それじゃあ、ゆっくり探してみるわ。それから伯爵家の奥様にも、機会を見て私から話しておくわね」
「ありがとう、叔母さま」

 これで、バイオレットとしてもリコリスとしても、オーランドの前に顔を出さなくて済むようになる……。安堵しながらも、なぜだか物悲しい気持ちになってしまった。





 授業用の本を抱え、歩いて伯爵邸へ向かう最中。
 のどかな郊外の道を歩くリコリスは一台の馬車とすれ違った。伯爵家のお客様かしら……と思っていると、少し通り過ぎたところで馬車が止まる。

「ねえ、きみ!」

 声を掛けられて驚いた。

 赤髪の青年が馬車の窓から身を乗り出して呼んでいる。身なりの良さから貴族だ。慌てて駆け寄ったリコリスは、よく分からないままに頭を下げた。

「ああ、やっぱり。『リコリス先生』だ。あ、ごめん、俺のことわかるかな?」

 愛想よく笑われて、リコリスは先日玄関先ですれ違った青年だと気が付いた。

「あ……。はい。先日はどうもありがとうございました」

「これから伯爵邸へ向かうところかな?」

 はい、と答えると、中から馬車の扉を開けられた。「良かったら送るよ」と言われ、リコリスは大慌てで首を振る。

「いえ、とんでもない……! 歩いてじゅうぶん間に合いますから、大丈夫です」
「まあそう言わずに。実はさっき妹ちゃんたちと話してさー、きみ、草花に詳しいんだって? 俺にも教えて欲しいんだよね」

「そんな、たいしたものではありません」
「またまた。オーランドの花選びにも付き合ったんでしょ? ね、お願い。もうすぐ俺の奥さんの誕生日なんだ。伯爵家まで送るから、ちょこっとだけ俺に時間ちょうだい」

 ね、と拝まれて困惑したが……。

 青年がオーランドやターニャたちの知人だということもあり、リコリスは断り切れずに馬車に同乗した。青年は女性の扱いに慣れているらしく、中流階級の娘相手でもステップを登るときに手を貸してくれた。

 馬車はUターンして再び伯爵家へ向かう道のりを走る。

「俺のことはグレッグって呼んでくれよ。えーと、ノース地方ってわかる? あそこを治めているラドリー男爵家の息子です」
「ラドリー男爵家のグレッグ様……。わたしはリコリス・ワイアットと申します。父は大学で植物学の教授をしています」
「植物学の。道理で草花に詳しいんだね」

 グレッグは愉快そうに笑った。
 リコリスも愛想笑いを返しながら、エトランジェで過ごした日々の記憶をひっくり返す。

 確信は持てないが、この男、『道化師の仮面の男』ではないだろうか。

 エトランジェでもオーランドと随分と親しげだったし、あの男も赤毛だった。

「それで……。奥様に贈るお花はお決まりなのでしょうか?」
「ううん。何かいい花言葉の花があったら教えて欲しくて。やっぱり薔薇とか?」
「そうですね、定番だと赤い薔薇ですわね……。えーっと……」

 リコリスはわざとたどたどしく話す。

 バイオレットと気づかれないようにするためだ。――いや、もしかしたら既にオーランドが話している? わからないから用心するしかない。

「赤い薔薇の花言葉は『あなたを愛しています』ですし、ピンクにも『愛の誓い』という意味があります」
「んー……でも、薔薇ってイメージじゃないんだよなぁ」
「では、えっと、ゼラニウムやガーベラなどはどうでしょうか」
「ごめん。名前だけ聞いてもよく分からないや」

 グレッグは苦笑いして頬を掻いた。花に興味はないらしく、そういえばオーランドに頼まれて花を選んだ時も「見たことある」「ない」と言った判断基準で花を指差していた。

 図鑑か何かで説明するべきかしら、と思ったリコリスにグレッグは気さくに提案した。

「リコリスちゃんさえ良ければ、仕事の後で俺に付き合ってくれない?」
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