仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
07、偽バイオレット現る!?



(結局、逆らえずに来てしまった……)

 一週間ぶりだというのに、踵の高いヒールはスッとリコリスの足に馴染んだ。

 背中を開けた夜闇のドレスは上品に、色を押さえた唇は艶やかに、きらめくシャンデリアの灯りの下で輝く。スミレの仮面をつけたリコリスの登場に会場がざわめいた。

(ああ、この空気)

 たった一週間。けれど、平凡に過ぎていく日々はなんて退屈だったのだろう。

 欲望と羨望。フロアで絡み合う艶めいた視線。
 甘い香水と酒の匂い。
 仮面をつけた、『誰』でもない人たち。

 誰でもない誰かに生まれ変われる瞬間を、リコリスの身体は喜んでいる。

(……毒されているわ)

 こんな生活。やめなきゃと思っているくせに、楽しんでいる自分もどこかにいるのだ。

 大人しくて地味な家庭教師はここにはいない。
 ここにいるのは誰も知らないわたし。夜を纏う、麗しの謎の令嬢。

「こんばんは、バイオレット嬢」
「あら、こんばんは」

 にこり。リコリスが微笑めば、仮面の紳士は納得がいったように一人うなずいた。

「……やはり、ここ数日のバイオレットはあなたとは別人でしたか。今、あなたを見て確信しましたよ」
「まあ。興味深い話だわ。その、わたしのそっくりさんとやらは今日はいらしているのかしら」

 声をかけてきた紳士が壁の側のテーブルを指差した。

「あちらで色男に迫っているところですよ」
「ありがとう。せっかくだからご挨拶してくるわ」

 いたずらっぽく微笑みながらも、リコリスは内心どきどきしていた。

 バイオレットの真似事なんて、いったい、どこの誰がしているのだろう。

『偽物』は思いがけずすぐに見つかった。正確に言うと、リコリスが気づいたのは銀の仮面をつけたオーランドの姿だ。つまらなさそうに座っているオーランドの背後から、スミレの装飾をつけた仮面の女性が首筋に手を回して抱き着いている。

(お、オーランド様……)

 別の男性が偽物に絡みつかれているようなら、『本物』が現れて一言言ってやろうかと思ったが、オーランド相手なら……。

 見なかったことにしようかと立ち去ろうとしたリコリスに、
「バイオレット!」
 オーランドが声を上げる。

 思いもかけず大きな声はホールによく響いた。

 会場中の視線がオーランドとバイオレット、そしてオーランドの後を追ってきたもう一人のバイオレットに注がれる。

 ……確かに、彼女が付けているスミレの花をあしらった仮面は、バイオレットの仮面にそっくりだ。

 メイクやドレスの雰囲気は叔母やメイドたちの気分によって変わるため、彼女のように少々派手なときもある。決定的に違うのは仮面に青いスミレが入ってないことくらいだろうか。

 リコリスの登場に偽物バイオレットはたじろいだ。

「ま、まあっ、バイオレットはわたしですわ! その女は偽物よ、オーランド様!」

 指を指されたリコリスは苦笑してしまう。
 大勢の客の前で茶番劇を披露してしまうことになりそうだ。リコリスは肩をすくめ、悪戯っぽく笑ってみせた。

「……ですって。バイオレット嬢が呼んでいらっしゃるわよ」
「俺が、偽物にひっかかるような馬鹿な男だとでも?」

 オーランドがリコリスとの距離を詰める。そのぶん、リコリスは一歩下がった。

「わたしも偽物かもしれないわ」
「俺は貴女を間違えたりしません」

 やけに自信たっぷりに言うが、その自信はどこからくるのだろう。

「貴女は俺の名前を知っていたとしてもこの場で不用意に呼んだりしない。仮面をつければ『誰』でもなくなるこの場所で、支配人からも客からも信頼を得ている貴女が、たとえ酒に酔っていたとしてもそんなミスをするはずない」

 大きな声でオーランドの名前を呼んでしまった女は慌てていた。

「それに」

 くすっと笑ったオーランドが偽物に視線を向ける。

「俺の知っているバイオレット嬢はそんな下品な香水の匂いはしない。髪の艶も、肌の張りも、何もかもが違う」
「ッ! 失礼!」

 真っ赤になった偽物バイオレットは亜麻色の髪のカツラをむしり取って出ていった。多分、彼女は二度とエトランジェに来ないだろう。

「……最低」

 香水はともかく、肌の張り云々というのは女性の大半を敵に回すような言葉だ。

 オーランドの方は悪びれる様子もなく、しれっとした顔をしていた。

「貴女にかけられた疑いを晴らしただけです。心配しなくても彼女と一線を越えたりしてませんよ」
「そんなこと心配していないしどうでもいいです」

 見世物が終わって客たちはぱらぱらと散っていく。

 そんなに面白くもない展開だったのだろう。オーランドを巡って女同士の戦いになることもなかったし、一度でもリコリスと話したことのある常連客なら、偽物だとすぐに気づけたはずだ。

 楽団が音楽を再開した。すぐ側にいるオーランドに手を取られる。

「一曲、付き合ってください」

 ここで無視するのも大人げないかと、リコリスはしぶしぶ頷く。

「一曲だけなら」
「この間キスしたことを怒っているんですか?」
「……もう忘れていました」

 素っ気ないリコリスにオーランドは笑った。

(普段、女性から追いかけられることに慣れているから、冷たい対応をされるのが新鮮なのかしら)

 否応なしに踊る羽目になったが、オーランドのリードは流石に場数を踏んでいるだけあって上手かった。

 エトランジェではダンスはおしゃべりの口実でおざなりになりがちだが、オーランドは手を抜かなかった。わざとらしく身体を密着させたり、リードするふりをして過剰に触れてきたりすることもない。

 けれど、曲が終わり、ダンスの輪がほどけても、オーランドはリコリスの手を離さなかった。

「貴女に会いたかった。一週間前に出会った貴女のことが忘れられなくて、ずっと探していたんです」

 真剣な眼差し。普通の令嬢であれば心ときめくような瞬間だろう。

 たとえ一夜でも、身分違いでも。
 そういう恋に酔ってみたい男女がこのダンスホールに集うのだから。

 リコリスは首を振った。

「一曲だけという約束です。……そうやって口説かれるのは慣れていますから」
「手厳しいな」
「事実です。わたしは誰のものになるつもりもありません」

 簡単に手に入らないから欲しくなる。
 オーランドも、珍しい女に振られたから執着しているだけだ。

 オーランドは不思議そうな顔をした。

「では、なぜ、貴女はここに来ているんですか?」
「それは――」

 恋を楽しむつもりがないのに、夜な夜な通っているのも変な話だ。

 叔母にそそのかされて、なんて正直に言えるはずもなく。

「探しているんです」

「誰を?」

「本当のわたしを見つけてくれる人を」

 仮面やドレスにも、調子のいい社交辞令や美辞麗句にも流されずに、リコリスのことを求めてくれるような人が現れたら……なんて。ロマンチックなことを口にしてしまって、かーっと赤くなった。

(何言っているのかしら。もっと適当な嘘でもつけばよかった)

 夢見る少女のようですね、と笑われるかと思ったが、オーランドは束の間顎に手をやり、何かを考えていた。

「……俺が、その『相手』になるにはどうしたら?」

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