鵠ノ夜[中]
それでも彼女は、俺のことを今も「櫁」と呼ぶ。
言葉を発せるようになった頃からすこしずつ覚えた使用人の名前はいずれも名字呼び。俺と兄さんが兄弟だから区別できないという理由も、もちろんあるのだろうけど。
「だって、櫁が最近かまってくれない」
「そうですね……
兄さんが雨麗様の専属使用人になられましたから、私が必要なくなっただけですよ?」
兄さんは、性格こそあんなものだけど。
なんでも器用にこなす人だ。雨麗様のことだって本当に大事にしているし……まあ、12歳も年下の彼女を自分のものにしようとしているあたりは、犯罪臭がする、が。
「必要なくなんてない。櫁も一緒なの」
「ふふ。ありがとうございます、雨麗様」
まだ10歳の少女。
どうか何も知らないまま育って欲しい、とは思うけれど。この家に生まれた限り、おそらくそれは叶わないものなんだろう。
デスクチェアに腰掛けていた俺の上によじ登ろうとする雨麗様。
抱き上げるようにして自身の膝の上に座らせると、彼女は向き合ったままその距離をなくすように身体を預けてきて、密着する。
「あのね、櫁が……
わたしから、離れていっちゃう夢だったの」
「、」
「離れちゃやだ……」
虫やお化けなんてものをまったく怖がらず、この歳にして組員に混じりながら15歳以上推奨のホラー映画を観ていることもある彼女が。
怖い夢、と言うから。
一体何かと思えば、とても人間味のある夢。
それで今日は甘えたなのか、と。
指の隙間で梳くように、彼女の髪を撫でた。