鵠ノ夜[中]
自分の主人だというのに遠慮の無い暴言を吐き出した兄さんは、灰皿で煙草を揉み消して俺の腕から彼女を抱く。
一瞬身じろぎした彼女はもぞもぞ動いた後、お気に入りのポジションを見つめたのかじっとして、安心したように名前を呼んだ。
「櫁」、と。
兄さんではなく、俺の名前を。
「……子どもを抱きながら鬼のような形相をされても困ります。
言われなくても、わかってますよ」
「ならとっとと帰れ」
「言われずとも」
言わなくても、わかっていた。
兄さんは、雨麗様が産まれてくるその前からずっと、彼女のことを楽しみにしていた。
奥様の元へ会いに行っては母親のお腹の中にいる彼女へ声をかけ、奥様と一緒に名前を考えていたのも知ってる。
結局は、旦那様がお決めになった『雨麗』という名前になったわけだが。
昔から頭が良く好奇心旺盛だった兄様にとって。
子どもが産まれる、というのもまた興味の一つで。おそらく彼女の両親と同じくらいに、雨麗様が産まれるのを心待ちにしていた。
だから。
……兄さんが彼女の手を離さないことなど、はじめからわかっていた。
いまはまだ、彼女にとって感情も未熟なまま。
けれどしっかりと兄さんが種を蒔いておいたおかげで、それが実になるまでそう時間はかからないはずだ。
「……おい、櫁」
──久々に。名前を呼ばれたことで、反射的に振り返る。
いつも「おい」とか「お前」とか呼ばれていることが間違いなのはわかっているのだが、どうも名前を呼ばれるのも慣れない。
内心の驚きはさておき「なんですか」と落ち着きを見せて返せば、兄さんは視線を俺に合わせることもなく。
腕の中の彼女を見つめたまま、俺に尋ねてくる。
「……お前、コイツのこと好きか?」