鵠ノ夜[中]



「小豆。

お前、若いうちに結婚しておく気はないか」



「……結婚、ですか」



「ああ。雨麗に仕えている以上、お前はこの先特に出会いもないだろう。

今年成人する娘を持つ親が複数、うちの使用人にいるからな」



要するに。

この先ずっとわたしに仕えているだけなら出会いもないから、さっさと結婚しろ、と言いたいらしい。どうせ何年後に結婚しても同じこと。それなら若いうちに、と。



「既に数名話を通してある。

お前が会うだけでもと思うならそう返事するが、」



「……申し訳ありません、旦那様」



小豆が。

深く頭を下げたかと思うと、それをたった一言で断る。そして、わたしに一度視線を向けたかと思うと、もう一度お父様の方へと向き直った。




「例えどんなに魅力的な方だったとしても、私は雨麗様だけに一生を捧げる、と決めておりますので。

一生独身でも構いませんし。どうしても、と仰るのなら、雨麗様がお相手をお選びになってからでお願いします」



「小豆……」



「ご期待に添えず申し訳ありません」



そうか……わたし。

嬉しかったんだ、あの時。自分の記憶にすら残らない約束を、彼が守ってくれていることをお母様から聞かされたあの時。泣いたのは、嬉しかったからだ。



「分かった、下がっていい」



お父様の言葉を聞いて、もう一度頭を下げてから立ち上がる小豆。

雨麗様?と不思議そうに視線を向けられてふるふると首を横にふると、ふたりで事務所を後にした。



まだ夏の余韻を残す9月の夜はどこか汗ばむようで、湿っぽい。

人気(ひとけ)はないが、事務所周りは防犯カメラが多数設置されていることを知っているわたしは、少しビルから距離をとって足を止めた。



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