Diary ~あなたに会いたい~
 最後のひとことは僅かに声を潜めてそう
言ったマスターに、俺は舌を巻いた。

 「だからあの時、やめておけ、って言った
のか。もう、遅いけど」

 ひと口、またウイスキーを口にして身体を
椅子の背に預ける。

 もう遅いと言いながら、じゃあ、いつだった
ら遅くなかったのかを考えてみて、おそらく、
初めから、もう、遅かったのだと気付いた。

 俺は今日の出来事を掻い摘んで話ながら、
グラスの中身を少しずつ飲み干していった。

 「なるほどね。彼女にそんな過去が、あった
とはねぇ」

 あまりにも複雑すぎる話を聞き終えたマス
ターは、眉間にシワを刻んで腕を組んだ。

 かかりつけのクリニックで偶然会ったこと
から、弓月の父親と恋人の登場。
 そして、小林医師のことを話しながらも、
二人の死の“事件性”については伏せておいた。

 「そういえば、マスターは何でわかったの?
ゆづるの人格のこと」

 空っぽになってしまったグラスと、新しく
注がれたグラスを取り換えながら、マスター
が、ああ、と口の端を上げる。

 「何度か、お店に来たことがあるんだよ。
弓月ちゃんの方がね。ゆづるちゃんのお勘定
が足りなかった時は、だいたい次の日に彼女
が持ってくるんだ。初めはびっくりして、
双子なの?って聞いてみたんだけど、そうと
も違うとも言わない。でもね、ある時、ふと
彼女の“ここ”に気付いた」

 マスターが自分の左手を顔の前にかざして
中指の先を指差す。俺は目を見開いて、
思わず答えを口にした。

 「ペンだこ」

 「そう。お勘定に来た彼女は右利きの様子
なのに、どういうわけか左手の指先にペン
だこがあった。ゆづるちゃんが左利きだって
いうのは僕も知ってたし、中指にたこがある
のも覚えていたからね。髪が短かろうが、
長かろうが、彼女は間違いなくゆづるちゃん
だって、確信したんだ」

 得意そうにそう言ってマスターが目を細め
る。俺はなるほど、と頷きながらも、でも、
と首を傾げた。

 「どうしてマスターに素性がばれるような
リスクを犯してまで、彼女がこの店に来たの
かが謎だな。足りない勘定は、また、ゆづる
の姿で夜に来た時に清算すればすむ話だろう?」

 テーブルに頬杖をついてそう言った俺に、
マスターが、確かにそう言われてみれば、と
首を捻った。
 けれど、数秒の沈黙のあと、もしかしたら、
と口を開いた。

 「別の人格に替わっている間、自分がどんな
場所で、どんな人間と関わっているのか、知り
たかったのかも知れないよ。日記を読んだだけ
じゃ全部はわからないだろうし」

 「記憶の穴埋めをしに、ここへ来てたってこ
とか。そういう理由なら、何となくわかるな」

 俺は記憶がないことでうつ状態になっていた、
という小林医師の話を思い出した。

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