Diary ~あなたに会いたい~
 マスターに言われて、ああ、と思い出した。
 そう言えば昨夜も、尚美の部屋を片付けて
いて、ほとんど寝ていない。

 「これを飲んだら帰るよ。今日は眠れそうだ」

 氷が融けて、少し薄まった酒を口に運ぶ。
 その時、カランと音をさせて店の扉が開いた。

 「いらっしゃいませ」

 マスターがにこやかな笑顔を向け、二人組の
客をカウンターの奧へと促した。俺は何げなく
振り返りながら、壁の時計に目をやった。
 店が開店してから、すでに1時間以上も経って
いた。

 ふと、時計の斜め下に見慣れぬ貼り紙がして
あることに気付いた。目を凝らして見れば、
それはマジックで書かれた「アルバイト募集」
という文字で……その下の内容までは読めない。

 「マスター、あの貼り紙……」

 くるりと身体を戻してマスターを見たが、俺は
そこで言葉を止めた。マスターは二人の客と談笑
しながら、酒を作っている。

 まあ、急いで聞くことでもない。
 俺はマスターが振るシェーカーの音に耳を傾け
ながら、頬杖をついて重い瞼を閉じた。








 翌日。
 
 どうにか仕事を休まずに出勤した僕は、レファ
レンスサービスと配架作業を終え、ひとり、昼の
休憩室にいた。外は、昨夜の雨が嘘のように晴れ
渡っているのに、中地下に位置するこの場所は陽
が届かず、寒い。
 眠れないまま朝を迎えた頭は重く、身体はギシ
ギシと痛みを訴えていたが、それでも、僕は数万
冊ある蔵書の中から小林医師の本を探し出し、
ひたすら目を走らせていた。

 
 弓月の担当医である小林医師は、国内でも数少
ないDIDの第一人者らしかった。
 実際の臨床例をいくつか取り上げながら、DID
のメカニズムをわかりやすく解説している内容
は、素人の僕でも読みやすい。中でも「見えて
しまう人たち」という項目は特に合点がいった。
実際には存在しない人影や死神、幽霊などが
“見えてしまう”DID患者の“幻視”という症状が
記してあったからだ。

 僕はいつかの夜、誰もいない街路樹の闇を見つ
め、“黒い人影が見える”と怯えていた弓月の様子
を思い出した。

 あれは薬の副作用でも、心霊現象などでもな
く、幻視だったのだ。怖ろしいものが見えてしま
う理由は、心理状態が投影された結果であること
が多く、心の安定を促す薬の服用で改善すること
もあるというが……

 弓月がその薬を飲んでいたかどうかはわからな
い。その他にも、倦怠感や頭痛、食欲不振など、
DIDが引き金となる症状がいくつか書かれていて……

 読めば読むほど弓月がDIDであるという現実が
僕に重くのしかかってきた。
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