Diary ~あなたに会いたい~
 ただ、弓月が隣にいるだけで、どんな場所も、
どんな風景も、鮮やかな色に染まっていた。
 毎日、毎日、彼女の時間が許す限り、
僕は弓月と共に過ごし、弓月で心をいっぱい
に満たしていた。



-----お昼ご飯、私が作ってあげる。何がいい?



 不意に、弓月の明るい声が耳に聞こえた。

 「そうだな………オムライスが、いいな」

 記憶を辿りながら、その声に答える。
 けれど、僕の声は暗闇に溶けて消え、弓月の
声も聞こえない。辺りは静寂に包まれていた。
 
 突然、得体の知れない何かが、ぐっ、と喉を
突き上げてくる。僕は震えてしまいそうになる
唇を噛んで、視界を閉ざした。



-----弓月を忘れるには、あまりに幸せすぎた。



 このまま、何もかも忘れたフリをして生きれ
ば、これ以上苦しむことも、傷付くこともない
かも知れない。
 
 けれど、これから先、どんな人生を生きたと
しても、弓月と出会えた以上の幸せは、どこに
もないように思えた。

 この世界の、どこにも……

 「……弓月」

 ずっと、口に出来なかった名を呼んだ。
 口にした瞬間、涙が滲んだ。

 先のことは、何もわからない。
 それでも、やはり、僕は弓月のいない人生を
生きられそうになかった。

 覚悟が決まったのは、一瞬だった。



------弓月に会いたい。



 その想いに急かされるように、立ち上がる。
 真実を知ったあの日から、10日が過ぎている。
 僕は腕時計に目をやり、走り出した。








 大通りの信号を渡り終えるのと、花屋の灯り
がぱっと消えたのは同時だった。

 僕は息を切らしながら額に滴る汗を拭い、
祈るような想いで、ドアを叩いた。

 closeの札を掛けられたばかりの扉が、ガタ
ガタと揺れる。店の奥でエプロンを外していた
らしい父親が、はっと振り返り、ドアのガラス
越しに僕を見つけた。少し驚いたような顔をし
て、こちらに向かってくる父親に頭を下げる。

 すっかり忘れていたが、ついこの間、僕は
父親の胸ぐらを掴み、怒りのままに彼を責めた
のだ。きぃ、と開いたドアの隙間から父親が
顔を覗かせたので、僕は再び頭を下げた。

 「あの、先日はとても失礼なことをしてしま
って、すみませんでした。こんな時間に、突然、
押しかけてご迷惑かとも思ったんですが、どう
しても……弓月さんに会わせていただきたくて
……その…」

 父親の顔が見れないまま、尚も言葉を探す。
 すると、息を吐く気配と共に、穏やかな声が
した。

 「頭を上げてください。遠野さん。そんな風
に、あなたが謝ることは何もありませんから。
ここじゃ寒いでしょう。どうぞ中に入ってくだ
さい。弓月は眠っていますが、家には戻ってる
んです」

 ぽん、と肩にのせられた温もりに顔を上げれ
ば、父親が目を細めて頷く。
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