Diary ~あなたに会いたい~
 「はい。合格」

 目の前に座るなり、マスターは俺が差し出し
た履歴書も広げずに、にんまりと口髭を歪めた。

 俺は思わず吹き出してしまう。

 面接をして欲しいと、マスターに伝えてから、
まだ5分と経っていない。

 「合格って、まだひと言も話していませんけ
ど。せめて履歴書に目を通してから、合否を決め
た方がいいんじゃないですか?」

 一応、雇い主とアルバイト志望の立場を弁えて
改まった口調で言う。
 すると「そう?じゃあ、一応」と、マスターは
履歴書を一見し、すぐに同じ言葉を繰り返した。

 「はい。合格」

 またもや吹き出しそうになりながらも、俺は
姿勢を正して、ありがとうございます、と頭を
下げる。飲食店での勤務歴がないことなど、不安
要素が全くないわけではなかったが、それを伝え
たところでマスターの気が変わるようには見えな
かった。

 「まあ、そう硬くならずに。いつものペースで
やってくれて構わないよ。もともと、あの貼り紙
は恭さんに来て欲しいと思って貼ったものだしね」

 マスターが、顔の前で手をひらひらとさせなが
ら笑う。俺はマスターの思わぬ一言に目を丸く
し、その理由を訊いた。

 「それじゃ、あのバイト募集は俺の為ってこと
ですか?」

 「それもあるけど、もちろん、それだけが理由
じゃないよ。色々とタイミングが合った、という
ことかな。恭さんが店を手伝ってくれれば、僕は
カミさんの介護に時間を割けるし、恭さんもこの
店で働きながらゆづるちゃんを待てる。まあ、
仕事は覚えるまで大変だろうけど、恭さんなら
大丈夫。僕の目に狂いはないからね。きっといい
バーテンになると思うよ」

 マスターが結婚しているという事実に内心驚き
つつ、俺は眉を顰めてマスターの顔を覗く。

 マスターは相変わらず、にんまりと笑っている。

 「介護が必要な奥さんがいる、っていうのは
初耳です」

 「うん。いま初めて話したからね。しばらく前
から若年性認知症、っていうのを患ってるんだけ
ど、施設に入れなきゃならないほど症状が進んで
いるわけでもないんだ。家族は僕しかいないし、
僕が何とかできるうちは、看てやりたいんだよ
ね。だから、仕込みや開店準備なんかを、恭さん
に任せられるだけでも、僕は助かるんだ」

 マスターが口髭を指で撫でながら、目を伏せ
る。病気の進行は緩やかだが、できれば時間が
許す限り側にいてやりたい、ということだろう。

 今まで知ることのなかった家庭人としての
マスターの一面に、どこか親近感を覚えながら、
俺は是非力になりますよ、と笑んだ。



------それがひと月前の話だ。



 思った以上に、黒のカマーベストに蝶ネクタイ
というバーテンスタイルが似合ってはいるもの
の、覚える仕事は膨大で、あまりマスターの役に
立っているとは言えない。


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