Diary ~あなたに会いたい~
 少し上擦った声でそう言った僕を、彼女が
見つめる。その表情は、困っているのか、
戸惑っているのか、よくわからなかったが、
僕は固唾を呑んで彼女の返事を待った。

 数秒ののち、不意に彼女が頷く。

 華が咲くような笑みが、僕に向けられる。

 「はい。待っています」

 艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
 その笑みに、僕は少しの望みを感じて、



------彼女の名を聞いた。



 「あの、僕……遠野(とおの) 和臣(かずおみ)といいます。
あなたは……」

 「杉村 弓月です」

 レジ台の上で両手を重ね、彼女は軽く頭を
下げた。

 「すぎむら、みづき…さん」

 無意識に彼女の名を反芻する。
 すると、彼女は少し困ったように肩を竦め、
壁の時計を見た。

 「あの、遠野さん。お店、閉店の時間なん
です」

 その言葉にはっとして、僕も店の時計を見や
る。時計の針はいつのまにか、閉店時間を過ぎ、
6時50分を回っていた。
 僕は慌てて、じゃあ、と頭を下げると出口で
彼女を振り返り、店を後にしたのだった。








------カン、カン、カン。



 けたましい音を鳴らしながら、右へ左へと
動く、赤い信号の光を見上げる。
 電車が通り過ぎるまでの、たった数分が待ち
遠しくて、僕は信号の光が消えるのを、今か今か
と見つめていた。
 遮断機がゆっくり、通せんぼをやめて上へあが
る。ちらと、腕時計の時間を確認すると、僕は、
まだほんのりと夕陽の残る空の下を走り出した。

 僕が彼女の店に通い始めてから、2週間が
過ぎていた。

 「雨、止んでよかったですね」

 「明日はお休みですか?」

 他愛のない、そんなやり取りをするだけの
ひとときが、僕の中で一番幸せな時間となって
いた。けれどそれ以上、彼女との距離は縮まっ
ていない。僕たちは相変わらず、花屋の店員と、
ただの客の一人に過ぎなかった。




 「すごいな…」

 花で溢れ返ってしまった仏壇の前で、僕は
両手を腰にあてた。いまや、母の仏壇は真っ白
な花で埋もれるほどになっていて、不純な動機
で飾り立てられた写真の中の母と目が合うと、
ちくりと胸が痛む。

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