Diary ~あなたに会いたい~
「どうぞ」

彼女に壁側の席を促して、向かいの席に
座る。勧められるまま腰掛けた彼女は、
羽織っていたカーディガンを掛けなおして、
脚を組んだ。

 「ここ、いい店だね。今日初めて来たんだ
けど、気に入ったよ。君はよく来るの?」

 「まあ、ね」

 そっけない返事をした彼女の視線は、ずっと
カウンターの奥に向けられている。
 どうやら、カクテルを作るマスターの様子を
眺めているようだった。

 ほんの少し前に見せた女神のような微笑みは、
どこかへ隠してしまったらしく、なぜか突き
放すような空気すら感じる。

 何か気に障ることでも言ったのか?俺が。
 それとも、気が変わってしまったのか?

 そう戸惑いつつも、俺はまた彼女に話しか
けた。

 「俺は永倉(ながくら)恭介(きょうすけ)。君は?」

 やっとこちらを向いた彼女が、少し考える
ような素振りを見せて言う。

 「ゆかり」

 「ゆかり。ふぅん、いい名前だね」

 そう頷いた俺に、彼女は満足そうに眼を細め
た。やっと、笑ってくれた。さて、次は何を
話そうか、と思い倦ねた、その時。

「はい。いつもの『ゆづるスペシャル』ね」

 銀のトレーを手に、俺の隣に立ったマスター
が、カクテルを彼女の前に置いた。

 「……ゆづる、スペシャル?」

 変わったカクテルの名前に首を傾げながら、
マスターを見上げた俺に対し、彼女は口を
尖らせてマスターを睨んでいる。
 瞬時に“まずい”と顔を顰めたマスターは、肩を
竦めると、「ごめん、ゆづるちゃん」と、トレー
で顔を隠しながら、逃げるようにその場を去っ
た。

 なるほど。“偽名”だったのか。

 ぽろりと彼女の本当の名を教えてくれたマス
ターに感謝しつつ、俺は腕を組んだ。

 「“ゆづる”か。いい名前だな」

 皮肉を込めて、さっきと同じ言葉を投げかけ
る。けれど彼女はまったく臆する様子もなく、
いましがた目の前に置かれたスペシャルなカク
テルを、美味しそうに口に運んだ。
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