Diary ~あなたに会いたい~
 二つの長い影が、すぐ後ろに迫まる。

 「……邪魔になるわ。入りましょ」

 ため息交じりにそう言うと、彼女は俺の腕を
掴んで、重い扉を開けたのだった。






 「空いてるよ」

 再び、店に戻るとマスターが頬を緩めて奥を
指差した。

 「どうも」

 飲みかけのグラスを手に、奥へと進む。
 あの夜、二人で座った席に腰掛けると、彼女は
鞄から小さめのスケッチブックと、色鉛筆を取り
出した。さっそく、俺を描いてくれるらしい。

 「それ、いつも持ち歩いてるの?」

 狭いテーブルに60色はありそうな色鉛筆が
並ぶ。カッターで削られた芯は先が少し丸く、
色鉛筆の長さもまちまちだった。

 アルミのケースの中から二段重ねの上の段を
取り出すと、テーブルは鮮やかな色彩で埋まっ
た。

 「色鉛筆はね。これはたまたま。ほら、描いて
欲しいんでしょう?顔上げて」

 突如、店の一角でスケッチが始まり、酒を飲ん
でいた他の客が、ちらちらと好奇な眼差しを向け
る。俺はその視線を遮るように、身体を傾け、
脚を組んだ。

 「こんな感じ?」

 膝の上で手を組んで、顔を向けてみる。
 自然な表情をするのが、意外に難しい。

 「……………」

 不慣れなモデルの動きが気に入らないらしく、
ゆづるは立ち上がって俺の肩を掴むと、背の向こ
うの風景と俺をうまく調和させた。

 ギギギ、と、擬音が聞こえてきそうな身体を
解すように、ポンと肩を叩く。

 「うん。そのまま、少し笑って楽にして」

 小さく頷いて長い髪を掻き上げると、どこから
か取り出したバレッタで髪を留めた。
 スケッチブックを手に、ゆづるが真剣な眼差し
を向ける。俺とスケッチブックを交互に見るその
瞳は、俺を見ているはずなのに、もう、そこに
“俺”はいない。

 眩い光が灯るカウンターを背に座る、風景の
中の“人物”だ。俺は彼女が描く画の、一部でしか
なかった。

 店内を流れる、ゆったりとしたBGMに、紙の上
を滑る色鉛筆の音が重なる。
 自由に動かせない身体は不自由な筈なのに、
不思議と心は満たされてゆく。
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