Diary ~あなたに会いたい~
 それからの数時間は、あっという間だった。
 さらさらと色鉛筆が紙の上を滑る音に、
時折、マスターが振るシェーカーの音。
 そこに緩やかなBGMが重なって、次第に
瞼が重くなる。無理もなかった。
 昨夜も、その前の晩も、俺はほとんど
眠っていない。
 疲れた身体に酒の酔いも回っていた。

 閉じてしまいそうになる瞼をこじ開けて、
壁の時計を見る。見えた時刻は、3時56分。
 夜明けまであと僅かだった。
 俺はいつしか、視界の中にゆづるを見つけ
ることが出来なくなっていった。
 心地よく沈んでいく意識の向こうで、
彼女の声を聞きたような気がする。



-----おやすみ。



それは、優しく穏やかな、母のような声だった。






 「……さん、恭さん」

温かな手に肩を揺すられて、俺は重い瞼を
開けた。焦点の定まらない視界に、白い髭を
生やした男がひとり。しゃがみ込んで、
俺を見上げている。

 「恭さん。店、閉めていいかな」

 その声に反射的に顔を上げた俺は、寝ぼけた
頭で店内をぐるりと見渡した。



-----誰もいない。



 目の前にいたはずの、ゆづるの姿もなく、
入り口付近の照明だけを残した店内は、まだ
真夜中のように暗かった。

 「ごめん。寝ちまったんだな、俺。
……彼女は?」

 「さっき帰ったよ。5時頃だったかな?」
 
 「……帰っちゃったのか」

 俺は落胆した勢いのまま、ぐしゃぐしゃと
髪を掻きむしると、ふと、テーブルの上で
視線を止めた。

 そこには、一枚の白い紙が置かれていた。

 スケッチブックから破り取られたその紙を、
手に取って裏返す。
 瞬間、俺は目を見開いた。



-------そこには。



 この店の風景そのものが、あたかもいま、
そこにあるかのように、存在していた。

 柔らかな灯りを背に受け止めて微笑む俺の
顔は、触れれば体温が伝わりそうなほどに、
“生きている”。

 想像から聴こえる音というものが、あるの
だろうか?カウンターの向こうでマスターが
シェーカーを振る音や、店に流れるBGM、
談笑する客の声まで画の中から聞こえてき
そうな気がして、俺はしばし、その音に耳
を澄ましてしまった。

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