Diary ~あなたに会いたい~
 「昨日の、ことなんだけど」

 一瞬で、弓月の顔色が変わった。

 僕はその事に内心戸惑いながらも、
握る手に力を込め、言葉を続けた。

 「何があったのか、話してほしいんだ。
突然、あんな風に僕を置いて逃げるなんて。
何かよっぽどのことがあったんだろう?」

 弓月が唇を噛んで俯く。
 僕に握られていた手をすっと引き抜くと、
怯えるように両手で顔を覆った。
 指の隙間から覗く唇は、小刻みに震えている。

 「黒い……人影が見えたの。真っ黒な……
人の形をしたものが、こっちに向かってきて。
それで怖くなって」

 「黒い………影?」

 小さく首を縦に動かして、弓月が目を瞑る。
 僕はどう答えていいかわからず眉を顰める
と、弓月の肩を抱いた。
 昨夜の風景を思い起こしてみる。
 けれど、弓月が凝視していた風景の中に不審
な人影はなかった。少なくとも、僕には何も
見えなかった。
 だからと言って「見えた」という弓月の言葉
を、否定する気にもなれない。
 もしかしたら、僕には見えないものを彼女が
「見て」しまうことだってあるのかも知れない
のだ。
 僕はそういったものを信じないタチだけれど、
母を亡くしてから、心のどこかでそういう世界
があって欲しいと思うようになっていた。

 「そう。僕には何も見えなかったけど、弓月
には怖いものが見えていたんだね」

 「………信じて、くれるの?私がおかしな
ことを言ってるって、思わない?」

 弓月が驚いたように目を見開いて僕を見る。
 僕はもちろん、と笑って頷いた。

 「信じるよ。でも、もしかしたら光の悪戯
かも知れないし、疲れていて錯覚が見えただけ
なのかも知れない。だけど、今までにもこうい
う事があったなら、もう弓月が怖い思いをしな
いように考えないとね」

 腕の中の細い肩を温めるように擦りながら、
ガラス越しに外を見る。
 冷たい風を受け、カタカタと揺れるドアの
向こうの景色は、昨夜と何ら変わらない。

 「今までもあったの?見えたこと」

 僕は努めて優しく問いかけた。
 弓月がぎこちなく頷く。

 「……そっか」

 僕は小さく息をついた。

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