Diary ~あなたに会いたい~
----パチン。



 誰もいなくなった広いフロアーの、カウン
ター以外の証明が消える。僕は大きく伸びを
して、椅子の背もたれに体を預けた。
 残業なんて、いつぶりだろう?
 タイムカードの表示はいつだって5:32や
5:38で、6時を過ぎることはあまりなかっ
た。

 ポケットに入れたままの、小さな便箋を取り
出す。結局、伝えたい言葉はまだ見つかってい
ない。

 「……今日は、無理だな」

 花屋の閉店は、確か6時30分と書いてあっ
た。大急ぎで終わらせて走ったとしても、間に
合わないだろう。
 僕は山積みの本を横目で見、体を起こした。
 今日は渡せない。その事に、内心ほっとして
いる自分がいて、苦笑いしてしまう。

 明日は公休で、いつもなら、ただ時間を持て
余すだけの、休日が待っている。

 だから、明日行こう。
 明日こそは花屋に行って、そして……

 僕はまた、便箋をポケットにしまってパソコン
に向かうと、まだ昨日出会ったばかりのその人の
顔を思い出した。じん、と胸の奥が痺れて、僕は
頬を緩める。生まれて初めて、大きな一歩を踏み
出すことを心に決めた瞬間だった。






 築28年になる古めのアパートは、僕が高校を
出た時からずっと住んでいる。

 最寄りの駅までは、商店街を歩いて12分。
 電車には乗らず踏切を超えてさらに15分。
 線路沿いを歩くと図書館が見えてくる。
 街の造りは小さく、けして賑やかではないけれ
ど、僕はこの街が気に入っていた。

 少し遠いように感じる徒歩27分の通勤も、
人々のささやかな生活が身近に感じられたし、
ただ自転車で通り過ぎてしまうのは惜しく思え
て、雨の日も雪の日も、僕はいつも同じ風景の
中を歩いていた。

 その、いつもと同じ、いつもの風景が、今日は
少しだけ違って見える。

 パタパタと焼き鳥を焼く、おじさんの団扇の音
も、薬局の前で立ち話をする、おばさんたちの笑
い声も、なぜか、僕の背中を押してくれているよ
うに聞こえた。

 商店街を進む僕の足取りは軽やかで、胸のポケ
ットには、小さく折り畳んだ、あの便箋が入って
いる。
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