Diary ~あなたに会いたい~
 「子供の頃に本を読んでね。ふと思い出した
んだ。あらためて月を見ることなんてないから、
ずっと忘れてたけど……月を描くなら別の呼び
名を知っていた方が気分も違うだろう?」

 ぱちり、と彼女が瞬きをした。
 そして俺を見上げる。少し顔を落とせば、重な
りそうなほど近くにある唇が、空に浮かぶ弓月の
ように弧を描いて歪んだ。

 「いいのね。描いても」

 「どうぞ。そこにある椅子を使うといい」

 首を縦に振って彼女から離れると、俺は窓の
隣にあるデスクから、黒いキャスター付きの
椅子を引っ張りだした。

 そして、卓上のデスクライトを灯す。
 部屋に差し込んでいた月明かりが、白い蛍光灯
の灯りに削られて散った。

 「ここからなら月も見えるし、色鉛筆も届く
だろう?」

 つい、と顎でデスクを指しながら椅子に腰掛け
るよう促す。

 ベッドを抜け出した身体に薄いシャツ1枚では
寒かろうと、クローゼットへ向かいかけた俺の肩
を、ゆづるの手が掴んで止めた。

 「あなたがここに座って」

 「……なんで?」

 「私はベッドに座るから、あなたはそこへ座って
って言ってるの。ライトも要らないから消してく
れる?せっかく月明かりがキレイなのに……これ
じゃ風景まで滲んじゃうわ」

 彼女に肩を掴まれたまま振り返った俺は、彼女
が言わんとしていることを理解できずに、目を
丸くした。

 なぜ、俺が窓の前に腰掛けねばならないのか?
 その位置からも外の風景は見えるだろうが、
俺が邪魔になってしまっては意味がない。
 色鉛筆はベッドの上に広げれば描けるだろう。
 それは一向に構わない、が……
 数秒ののち、苛立たし気にゆづるが「だから」
と口を開いた瞬間、ようやく俺は理解した。

 「もしかして、俺も描くの?」

 「そう。だから、あなたはそこへ座って」

 ふふ、と小首を傾げて彼女は肩にかかる髪を
はらった。
 そうして、俺の肩から手を離し、コロコロと
椅子を転がして窓の前でくるりとこちらを向か
せる。窓枠の風景の中の“弓月”は向かって左側
に位置し、俺はその反対側に描かれることに
なる。

 確かに、構図的にも良さそうだった。

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